楽器の反復練習に救われる日々

一度離れた趣味を再開させるのは簡単ではない

数十年ブランクのあるドラム趣味を再開させたのは二カ月ほど前のことだ。
定年退職後のために作った居場所にはいつでも再開できるようにとドラムセットを置いていたが、一度離れた趣味を再び始めるには想像以上の決断力を伴った。

好きなのに始められないのには理由がある

そう固く考える必要もないのだろうが何かを始めようとするときは必ずネガティブな思考が頭を過ぎる。
特に私のように臆病な者は尚更だ。

「どうせ続かないだろう」「年齢を考えると上達は見込めない」といった思考が始めることをためらわせる。
ましてや経験のある楽器は上達の難しさも記憶の中にあるのだから、始めようとする意欲を抑え付ける理由には持ってこいだ。

しかもドラムという楽器はひとりで演奏するためのものではなくバンドの中でこそ生きる楽器だ。
しかしメンバーを集めてバンドを始めるというような予定もない。

これが初めてのことなら好奇心が勝って時間を掛けずに始められるが、その時の思考は「取り敢えずやってみて飽きたらやめればいい」「意外に楽しく続けられるような気がする」といったポジティブなものだ。

再び始めて気付いた新しい発見

ドラム趣味を再開するまでに時間は掛かったが、始めてみると以前やっていた頃には考えもしなかった新しい発見があった。
そのひとつが練習する楽しさだ。

ドラムの練習と言えば、メトロノームのクリック音に合わせて果てしなく繰り返すリズムを打つトレーニングだ。
この手足の反復運動がこれほど気持ちのいいものだったということは予想を超えていた。
これはマラソン選手のランナーズハイに似たものだ。

スティックを持ってリズムを打っている間、マルチタスク状態になることは絶対にない。
意識しているのはクリック音と自分の音が同化することだけなので集中力は自然に高まる。
ストレスを解消して幸福感を得られる反面、下手をすればドラム依存症になるのではないかとさえ思えるほどだ。

なぜこの感覚をこれまで味わったことがないのか考えて見ると、おそらく練習量と知識量にあるのだろうとしか説明できない。
子育て時期は練習する環境を作ること自体難しいし、その後も休日暇な時間を見つけてやっていた程度だ。
時には集中してチェンジアップ(ドラムトレーニングの一種)などをやった時期は目に見えてリズム感が上達したこともある。

今回ドラムトレーニングを再開してからの二カ月間は、ほぼ毎日数時間を練習に費やしている。
「このブログを書く時間もないほどだ」と言えば嫌味な言い訳になってしまいそうだが、もう少し若ければプロにでもなれそうなほどだ。
仕事をしている人には寝る時間を割かなくては作れないほどの時間をドラムの練習に充てている。

これだけの時間をドラムの練習に充てているのからさぞ上達するだろうと思えそうだが、まったく目に見えるほどの上達は伺えない。
年齢のせいにはしたくないが他に負わすものが見当たらないので仕方ない。

単純な反復運動が精神衛生的な健康に影響

単に趣味だけが及ぼす健康面への影響などこれまでは考えもしなかったが、この歳になって初めて気付かされたようにも感じる。
昔、大きなキャバレーの専務が話していた言葉を思い出す。
「忙しい従業員は辞めないが暇な奴ほど辞めていくものだ。その理由は忙しい者の方が精神が健康だからだ。」
「若い従業員に次から次に仕事を言いつけ、時間に余裕を持たせないことで辞めていく者がいなくなる」とのことだ。

当時水商売のマネージメントでは共通認識だったようだが、定年退職後に置きかえると暇な時間を持て余している人ほどネガティブ思考が強くなり精神面で不健康になると言った感じだ。

話しが逸れたが楽器の練習は時間を使うには打って付けだ。
どれだけ時間を費やしても目に見えて上達することもないが、その間集中力だけは切らすことがない。

スポーツであれ楽器であれ単純な基礎練習ほどつまらないものはないと思っていたが、今はその単純な反復運動に救われているようだ。

輪郭のない不安や揺れる情緒もドラムの練習をしている時だけは安定していてスッキリした精神状態を保っていられるからだ。

しかも勉強のように脳を使うと言うよりは筋肉や神経を使う感覚なので眠くならないのが利点だ。

長年付き合ってきた価値観を変える難しさ

仕事という絶対的に第一優先される時間を失くしたのだから、その時間を趣味に費やしても何の問題もない。

問題があるとすれば自身が持つ常識との闘いだろう。
10代や20代の若者なら一日中部屋にこもってドンチャンとドラムの練習をしていても世間体まで気にすることもないだろうが、60歳も過ぎた高年齢者がそんなことをしているのだから、ご近所で悪い噂になっていないかと心配になる。

ましてや定年退職した人のほとんどは農業で汗を流すのが常識化したような地域なのだから尚更だ。
天気のいい日に家の中にいるだけでも罪悪感を感じるほどだ。
「一般的健全者は外仕事で汗を流し働くことを善とする」といった教えの家で育ったのだからこの罪意識から完全に逃れることは死ぬまで不可能だ。

この拭い去れない善悪の価値観が憧れの阿呆人生に近付けない原因になっていることも否定できない。