老後だからできると思っていたやりたいことが?

定年退職から五年が経ち一度立ち止まって振り返ってみた。それはもちろん反省もあるがこれからの道を探す目的のためでもある。
やりたいことをやっているのにその実感が持てずに迷っている。

やっとできる時が来たのになぜできない?

定年退職すれば誰にも縛られない、自由という長年憧れてきた幸せが手に入ると考えていた。「けれどもこのモヤモヤした違和感の原因はなんだ」と思うことがある。
何十年も待ち望んだ自由なのにいざその時が来たらその自由を持て余し、本当にやりたいことすらよく分からなくなってしまう。

定年退職後にやりたかったこと

定年退職したら旅がしたい

サラリーマンではなかなか出来ないと思っていた三泊以上の海外旅はどうだったのだろう。
定年退職した当初は貯蓄にも多少の余裕を感じていたから一週間程度の海外旅も何度かは行けたが、数年経過するとその余裕も段々となくなってきた。
思わぬ出費も想像以上で貯蓄の切り崩しにも不安が過ぎるようになっていった。
年金を生活基盤にしている以上生活は少しでも切り詰めなくてはならないが、そんな条件下で旅をすることが贅沢この上ない道楽になっていったのだ。
そんな中、世界中を震撼させたパンデミックが幸か不幸か私の道楽を遮った。

やりたかったことの迷い

もしパンデミックという壁がなかったとしても5年間も海外旅を続けられる余裕がなかったことは明白だ。
それでも旅を続けたいと新たに始めた車中泊旅は、海外旅に比べれば低予算で我ながらいい思い付きだと自画自賛したものだ。
しかし実際やってみると期待していたものとは何かが違っていた。
海外旅や国内旅、ひとり旅やその他の旅など条件が違っても旅としての期待値はさほど違いないだろうと勝手に自分に言い聞かせていたのだ。
初めて見る景色や人との出会い、心地いい緊張感や非日常感などだ。
しかし頭の中でなんとなく創り上げていたそれらの欲求は満足できるものではなかった。
そのことをもっと具体的に文章にしたいところではあるが、ここで下手に書いてしまうと誤解を招かないとも限らない。
どのように言いまわそうが現に旅を楽しんでいらっしゃる方々からすれば単に私の戯言に過ぎないということだ。
ただひとり旅をされている多くの方がこれと同じようなことを発信されているので、定年退職してひとり旅をした私だけが特別なのではないとも思えるのだ。
定年退職後に小さいキャンピングカーを買って夫婦で旅をされている人と、私のようにひとり旅を選んだ者との差なのだろうかと今更ながら振り返っている。

孤独と向き合うことの難しさ

定年退職で得た自由には人付き合いの煩わしさも含まれていた。
仕事という紐だけで結ばれていた人脈の中には、どう繕ってもストレス以外の喜びを分かち合えないような人も含まれていた。
正に天敵としか言いようがない合い交えない人脈だ。
そんな人がどんなにマイノリティーだったとしても、縛られていた同じ紐から解き放たれる喜びがあったというのは正直なところだ。
それこそが定年退職というものだから、その後は煩わしさを伴わない人生になり孤独を楽しめるはずだと自分に言い聞かせていたのだ。
しかしひとり旅を続けているうちに、何か物足らないような違和感を感じるようになっていった。
共有する人がいないというだけで、旅の非日常感の刺激が失われるように感じたのだ。
そんな時にも、過去の煩わしいとしか言いようのない人間関係が懐かしい刺激として蘇るのだから勝手なものだ。

何かやらなければという使命感ではない

「これまで家長として家族を養い子育ての責任も果たしてきたのだから、老後くらいはゆっくりゆったりと畑でも耕しながら気の向くまま過ごせばいいじゃないか」「何でそんなに深く考える必要があるんだ」といったご意見に真っ向から意義を訴えようとは更々思ってはいない。
それもひとつの人生だ。
誰もがそれぞれ自分の思う人生を生きればいいのは重々承知の上だ。
サラリーマンで人生の大半を過ごしたせいか、それとも私が貧乏性だからなのかは分からないが、最後の人生くらいは誰かに促されるのではなく自分が思うように生きてみたいと思ったのだ。
いつ頃備わった性分なのかは分からないが、「今日はやることがないから居間でゴロっと横になって一日テレビでも見て過ごそう」といったことができないのだ。
正に貧乏性そのものだ。
それは生きた証しを残そうとか何かをやり遂げようといった大義名分ではなく、芯から楽しめる何かを探していると言った方が的を得ていそうだ。

旅で気付いたこと

いや「旅で気付いた」と言いたいだけなのだろうが、まだ見たことがないものを見てみたいという好奇心はこの歳になっても心の中に潜んでいる。
それは景色に限ったことではなく、まだ到達していないスキルのようなものも含まれる。
スキルと言えばまた誤解を生みそうだが、この歳になってやりたい訳でもない資格取得に挑戦したい訳ではない。
これまでの人生で中途半端にやってきた趣味の世界のもう少し先を見たくなったとでも言えば格好つけすぎ感は否めないが、これとて自分に相応しい生き方だと確信している訳ではない。

絵を書いてみたいと思ったことや作曲してみたいと思ったこともあるが、多くのことを継続する自信はまるでない。
そうかといってひとつのことに脇目もふらずやり通す自信は更にない。
それは定年退職からの実績でも明らかだ。
やはり中途半端だと自覚しながらでもこれまでやったことをやり進める意外なさそうなのだ。
寝て過ごすことを苦痛に感じるわりに三日坊主飽き性というのは我ながら厄介な悪癖だと言うしかない。

やってみたいことと生活の関わり

中にはやりたいことを思いつかないという人や、これと言ってやってみたいことがないという人も少なくないようだ。
例えば私の周りを見てみると、農業がやりたいから定年退職を早めた人もいるが別にやりたい訳ではないが他に思いつかないから先祖から受け継いだ田畑で農業をやるしかなかったという人も少なくない。
田舎に住んでいる人の中では、私のように定年退職後を趣味に生きるという人の方が断然マイノリティーだ。
世の中変わったとは言え何十年もサラリーマンを続けてきた精神には、働かない罪意識が根付き趣味は遊びという後ろめたさが付きまとってきた。

それが五年経ってやっと取れてきた気がしている。
収入を得ない趣味と比較して農業のように少しでも生活の足しになると思えることの方が情緒の安定にはよさそうだ。
つまり物事を生産性の価値で判断する脳には、どんなに少なくても収入が安定剤になるようなのだ。

やりたいことの振り分け

何かやっていないと落ち着かない貧乏性の私は多趣味だ。
これまで中途半端にやってきたことの数もおそらく一般的なサラリーマンの中では多い方だろう。
定年退職を機に深く考えずにやったことも少なくない。
海外旅、国内車中泊旅、ゴルフ、楽器、語学などだ。
しかしそれだけには留まることはなかった。
とにかく何でもやってみないと気が済まない性分が、心豊かな隠居生活どころか自由までも脅かしかねない状況になっていった。
このブログを中途半端に休んでいたのもそんな理由からだ。
やりたいことをやるだけでなくその全てをSNSなどで発信しようとしたからだ。
Facebook、インスタ、ツイッター(X)、ブログ、YouTube、ポッドキャストなどだ。
当然出来るはずもなくそのほとんどが中途半端になっていった。
このように定年退職後の五年間にやってみたことは一度はやってみたかったことなので後悔している訳ではない。
自分に向いていることやそうでないことなどやってみたから分かったことも多く、ただ少し回り道をしただけだとポジティブに考えるようにした。
今立ち止まってやっているのはそれらの振り分けだ。
言い換えればやりたいことの断捨離だ。
本心から楽しめるやりたいことを見つけるためだ。

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