45年間心を潤してくれた若い頃の経験

10代のひとり旅は偶然の冒険だった

「あれからもう45年も経ったんだ」と思い出すことがある。
高校3年生の夏休みが終わろうとしていた頃だ。
今でも鮮明に記憶の中にあるのは当時相当な非現実的な行動だったからに違いない。

見事に破られた後輩との約束

夏休み中の学校に登校していた日の帰り道、普段あまり話したことのない後輩から「一緒に帰りませんか」と声をかけられた。
その道中に「先輩は高校生最後の夏休みなので思い出作りにどこかへ出かけませんか」と言ってきたのだ。
「ひとりでは親の許しが出ないので先輩が一緒なら」と付け加えた話しだったと記憶している。
「せっかくなので2泊くらいしましょう」ということで学校がある最寄り駅で「何月何日何時に」とだけ約束をしてその日は分かれた。

それから数日経って「友達と3日間キャンプに行くから」と親の許可を取り当日を迎えた。
ナイロン製のペラペラなリュックに適当に下着などを入れ、バイトで得た少しばかりのお金を持って約束していた待ち合わせの駅に向った。

ところが約束の時間が30分以上過ぎても後輩が現れないものだから、駅の公衆電話で連絡が取れないか試みることにした。
そんなに親しくしていなかった後輩の名前も苗字しか覚えてなく、その地域の同じ姓を電話帳から探り当て何軒目かでやっとその後輩の家に繋がったが、電話から聞こえてきたのは「朝から熱が出て行けそうにもありません」という情けなさそうな声だった。

もし私が後輩の立場ならもっと早くに何とか連絡を取り熱が出て行けなくなったことを伝えるか、無理をしてでも待ち合わせの駅まで出向いて事情を話すだろうと腹が立った。

所詮親しくもなく、ましてや友達でもないやつの誘いを真に受けた自分にも非があるのだと思わざるを得なかったが、それでも当時は熱が出たことを疑わなかったものの今考えるとそれも怪しいものだと思ってしまう。

もちろん携帯電話もない時代で連絡を取ることだけでも困難だったが、相手の人間性をこの約束ひとつで見抜くことができたと思うしかなかった。
そもそも後輩にしてみればその時とっさに出た話題というだけで、まさか本当に行くとも考えていなかったのかもしれないのだ。
その後この後輩に話しかけられることが一度もなかったのは、この時の出来事に後ろめたい気持ちがあったからだろう。

初めてのひとり旅は好奇心の向くままに始まった

せっかく3日ほどキャンプに行くと家を出ているのに、このまま家に帰るのも勿体ないと考え次に入って来た列車に飛び乗った。
よく考えてみるとただ「どこかへ行きましょう」と言われただけで行き先も目的も何もないことが頭を過ぎった。
予想もしていなかった17歳高校生の計画性ゼロのひとり旅が始まった。

子どものころから旅行などに連れて行ってもらったこともほとんどなく知らないところに行って見たいという好奇心だけで心が動いていたが、この時はまだ無謀とは思っていなかった。

山陰線の八鹿駅で取り敢えず鳥取までの切符を買い、下り普通列車に乗り込んでいた。
切符を買ったとはいえ鳥取駅に着いて下車したのは昼を過ぎ腹も減っていたことで昼食を取ることにしたからだが、今のようにコンビニもファミレスもない時代で飲食店も少なかった。
いや当時は鳥取にファミレスがなかっただけだったのかもしれないが、ようやく見つけた店に入ってメニューを見たとき目を疑った。

このときひとりで飲食店に入ったのも初めてでまさか千円以下の料理がないとは思ってもみなかったが、椅子に座ってメニューを見てから外に出る勇気もなく一番安い天ぷら定食を注文したことは昨日のことのように蘇る。
その当時は店構えで料金を見分ける知識が田舎育ちの私には備わっていなかった。

思わぬ高額出費とは言え腹は満たされたので鳥取駅に戻ると下りの汽車が出た後で、次の普通列車までは1時間以上の待ち時間があった。
何もせずに待っているのも退屈だと思い次の駅まで歩くことにしたが、無論スタンドバイミーのように線路の上を歩くこともできず西へ伸びる道を行くことにした。
しかしその道の方向を少し間違ったことから時間を大幅にロスをして次の列車にも間に合わなくなってしまった。
別に時間を気にする旅でも目的がある訳でもないので残念とは思わなかったが、米子を過ぎて島根県に入った頃に綺麗な夕日が見えたのはその恩恵だったのだろう。

出雲大社に行ったのは

乗車したのが鳥取の次の無人駅であったことから切符を持っていなかったが、その後廻って来られた車掌に無人駅で乗ったことを伝えると「どこまで行かれますか」の問いにとっさに出雲大社に行くと答えていた。
出雲大社に行く予定はしていなかったものの他に思いつく地名が出てこなかったのだ。
出雲市駅で下車して電車に乗り換え出雲大社まで行けることをこの時初めて知った。

車掌に言われた通り出雲市駅で降り街灯のついた駅前をうろついたのは、パンとコーヒー牛乳を買いたかったからだ。
昼食に天ぷらを食べたからかそんなに空腹感はなかったが、そのうち腹が減ってきたとき買う店が見つかるとも限らない。
駅の中にも売店はあったのだろうが何故か目に入らなかったのは、閉店していて気付かなかったのか何かを警戒したのかは覚えていない。

記憶にあるのは昔からあるような駄菓子屋さんでパンとコーヒー牛乳を買ったことと、そこの老婆に出雲大社に行くなら早く電車に乗った方がいいと急かされたことだがその理由は覚えていない。

駄菓子屋の老婆に言われた通り出雲大社行きの電車に乗り、その車内で考えていたのは寝る場所のことだった。
出雲大社駅の駅舎にベンチぐらいはあるだろうから心配はないだろうと、何故か楽観的に考えた気がする。

それでも出雲大社駅で駅舎内で寝ることの許可を得ようと聞いてみると「夜は駅の扉を閉めるので泊まることはできない」とあっさり断られた。
仕方ないので駅から出雲大社までゆっくり歩いて行く事にしたが、記憶の中にある風景は広い松林の寂しそうな一本道だ。
しかしその記憶にある風景と、その後社会人になってから出雲大社に訪れたときに見た風景とは随分と印象が違って見えたのは、その時の不安や期待などの心境が風景の記憶までも歪めてしまったのだろうと考えるしかない。

結局大きな鳥居をくぐり広い出雲大社の境内にあるベンチに座り、持っていたパンとコーヒー牛乳を食べてそのまま横になった。
遠くの電灯が何とかほんの少しの灯りを届けてくれていたが、出雲大社という神秘感と夜の冷気が恐怖心を招きなかなか寝付くことができなかった。
実際には八月とは言え盆を過ぎていたこともあり、長袖の服を持っていてもこの寒さに絶えて外のベンチで眠ることができなかったと言う方が正解だろう。

一時間も眠っただろうかと思って目が覚め、これ以上寝るのは無理だろうと起き上がり気が付いた時には歩き出していた。
歩いている時は寒さを感じなかったが、住宅街では犬に吠えられ街灯のない街外れでは月が雲に隠れないことを祈った。

取り敢えず出雲市駅まで戻れば何とかなるだろうと眠気をこらえて歩いたが、出雲市駅に着く頃には空が白け始めていた。
鮮明に覚えているとは書いたが、それでも45年も前の記憶なので辿れば曖昧なことも多い。
3時間以上夜道を歩いた記憶は否めないが、おそらく簡単な地図を持ち道路標識や住宅の表札にある住所などから位置情報を探って歩いた結果だったのだろう。

先へ進むことができなくなった不安

家を出てからまだ一日しか過ぎていないこともあり、残り二日を考えればもう少し遠くへ行けるはずだと駅の時刻表から次の目的地を探ることにした。
山口県内の大きめの町に目的地を定め、そこまでの運賃も確認して切符を買おうと窓口へ向かう途中、ポケットに入れていたお金がなくなっていることに気付いて血の気が引いた。

財布も持たずお金をそのままポケットに入れていたが、もしものことを考え二か所に分けて持っていた。
その一か所がズボンのポケットだったので手を入れた瞬間に違和感を覚えたのは、折りたたんだ千円札が10枚近くは入っているはずなのに手に触れたのは硬貨だけだったからだ。

出雲大社のベンチに横になった時かこの駅に来る道中に落としたとしか思いつかないが、とにかく昨日の天ぷら定食どころの比ではないほど動揺していた。
「出雲大社に行って参拝もせずに帰ったものだから罰が当たった」とは60歳過ぎた歳になってから思えたことだ。
急いで予備に入れていたお金も取り出し持ち金を数えて見たが、どう計算しても家まで帰ることができるギリギリの運賃でしかなかった。

「家には帰ることができる」という安心感がどうにか動揺する心を抑えてくれたが、次の瞬間に飲み食いすらできない状況が頭に取り付いた。
一日食べることができなくても死ぬことはないだろうが、それだけの時間何も食べずに過ごした経験はなく想像することすらできなかった。

これではとても先に進む勇気など沸いては来ない。
それよりも食べるものを買えない状況からか急に腹が減ってきたことが更に不安を煽った。
昨日買ったアンパンの味を思い出すだけで懐かしさを感じたが今はそれを買うこともままならない状況だ。
もしアンパンがほしいなら汽車の運賃を減らす努力しか思いつかず、その分歩いて帰ることにしたがどれだけの区間を歩けばアンパン一個分に相当するのかと策を練った。

駅に掲げてあったこの辺りの地図を見て、次の駅までの道のりには大きな川を渡るリスクを感じたのは、当時歩道が併設されていない橋も多く特に長い橋を渡るのは怖いと思っていたからだろう。
それに加え昨日の鳥取駅から歩いて方向を誤った経験もここから歩くことをためらった理由になったと思う。
そこで迷うことがない宍道湖(しんじこ)のほとりを歩こうと何駅か汽車に乗った。

宍道湖の西の端にある駅で降り、そこから数時間歩いて松江の手前の小さな駅にやっとの思いで辿り着いた時には空腹感も相当なものだったに違いない。

知らない町でお世話になった人の名前も聞かなかったのは若気の至り

その小さな駅で長時間歩いた疲れを癒そうとベンチに座っていると隣に座っておられた高齢のご婦人に声を掛けられた。
腹が減っていたとはいえよほど情けない表情をしていたのだろうが、「どこから来られたの」とか「どこへ帰られるの」などの質問に、このご婦人はおそらく私のことを家出少年と見ておられるのではないかと思えた。
そこで家族に了解を得たひとり旅の途中でお金を失くしたことなどを説明していると、荷物を持った若い女性が近付いてきた。

「今からこの子と食事に行くから一緒に行きましょう」という高齢女性の言葉が断ることができないと感じるほど説得力があったのは、まだ私の家出容疑が晴れていない証しだったとしか説明できないほどだ。

近くの食堂で頂いたカツ丼の味はその後45年経っても消えないほど満足できるものだったが、若気の至りとしか弁明できないのはそのご婦人の名前すら聞かなかったことだ。
もちろん御馳走になったお礼は充分伝えたと思うが後で考えると悔いが残った。

そしてお世話になった高齢女性に見送られながら、「祖母のところへ遊びに来ていた」という若い女性と汽車に乗った。
松江の大学生だという孫娘は「祖母はいつもお節介を焼くのでごめんなさい」と笑っていたが、「いえいえこんなに親切にして頂いたのは初めてです」と言うのがやっとだった。
その女性と一駅だけ同じ汽車に乗った時間も含め、その御恩は一生忘れることができない思い出となった。

腹も満たされ心や体力に余裕が戻ったのはいいが、厄介なことに今度は海辺を歩きたくなった。
しかしこの余裕が旅の最後に影響を与えるとは思ってもみなかった。
車内で買った切符が米子までだったことから鳥取の海に近い駅で下車して海沿いを歩いた。
昨日見たような夕日を見ることは叶わなかったが、天気に恵まれ青い日本海を堪能した充実感は海から離れた内陸部で生まれ育った者には特別だった。

一駅か二駅だろうが海辺の道を時間を掛けてゆっくり歩き、再び小さな無人駅から汽車に乗った時は日が落ちていた。
ところが乗った列車は浜坂駅止まりでその日の内にそれ以上先に行く列車は運行されていないと知ったのはまたしても切符を見回りに来た車掌からだ。

仕方なく浜坂駅で降りたがさすがに睡眠不足疲労は家を恋しくさせるのに充分なものだった。
この駅から家に近付く方法はヒッチハイクしかなかったが、海辺の漁師町である浜坂駅からでは可能性が低いということは想像できた。

ヒッチハイクの可能性を上げるには、10キロ程度徒歩で内陸側を通る国道9号線に出て長距離トラックに目標を定めなければならない。
それは少し前に友人とヒッチハイクをした経験から自信が持てる知識のひとつだったが、後で考えると9号線に出る道は途中で引き返していただろうと思えるほど暗い山道だった。
しかしその時は運よく無料でタクシーに乗せて頂くことができた。
この旅二回目のご厚意だった。

浜坂駅を出て30分も歩いただろうかというところで後ろから来たタクシーが止まり「高校生だろう、乗せてやるから」とズバリ見抜いた台詞を言う運転手さんに「すみません、お金持ってないので」と言ったが「この先で検問してるから補導されるだろうがそれでもいいか」と乗車することを促された。

運転手さんの言われた通り次のカーブを大きく廻ったところで検問していたパトカーを横目に9号線に出ることができた。
深々と頭を下げる私に「若い時の冒険は人生の糧となるから」と言い残し行灯(あんどん)を消したタクシーは走り去ったがこの方の名前も聞いていない。

時間は深夜となり国道9号線もたまに通り過ぎる車はほとんどが大型トラックだ。
先ほどお世話になったタクシーの運転手さんにも「一桁国道はトラック街道と言われているからヒッチハイクをするには目の付け所がいい」と誉めて頂いたばかりだ。

少し広くなった車道の手前で軽いリュックを振りながらヒッチハイクをすると、案の定数台目で大型トラックが止まってくれた。
助手席の窓が開き「どこまでだ」と言う問いに「312号線までお願いします」と答えると手招きで乗っていいと言う合図を頂いた。

お世話になったこのトラックの運転手さんとの会話をまったく覚えていないのは無口な高倉健さんのような人だったからだろうといった理由に記憶を曲げているが、状況から考えると「これでやっと帰れる」という安心感やトラックの心地よい振動などによって眠ってしまったのが真相だろう。

こうして45年前のひとり旅は終わりを迎えたが、ここまで鮮明な記憶に留めて置けるのは初めて味わった大きな不安や知らない人から受けた初めての温情などのお蔭だろう。
多少「おそらくそうだっただろう」という色付けはあるが、できる限り記憶を辿って書いたつもりだ。

63歳が目の前になった今となってはやろうと思ってもできない経験であることに間違いないだろうが、この歳になってもひとり旅への憧れが強いのは、色褪せずに記憶に残るこの時の経験がその後の人生に潤いを与え続けてくれたからだ。

正に経験が人生を豊かにするとはこのことだろう。
人生が後半に差し掛かったとしても、新たな経験が心を豊かにしてくれることを信じたい。

コメント

  1. buri より:

    面白く拝読しました。
    いい時代に、いい大人に出会えたのですね。
    私は今年60歳で、夫は63歳になります。
    私自身も今後の暮らしや昔のことをいろいろと考えることが増えています。
    多くの点で同感するブログで、読むのを楽しみにしています。
    いつもありがとうございます。

    • saiga yumezou より:

      いつも読んで頂きありがとうございます。
      貴重なコメントに大変励まされます。
      できれば死ぬまで健康で、夫婦で支え合って生きることができればどれだけ幸せだろうと思います。
      私も3月で63歳になりますが、時間ばかりが早く過ぎて反省を繰り返す毎日です。
      このように女性からのコメントや問い合わせを頂いた時、男の身勝手な思いを書いているだけではないかと気づかされたりします。
      そんな意味でも大変ありがたいコメントに感謝します。
      今後ともよろしくお願い申し上げます。