昔の生活に心の豊かさを感じるのはなぜ!

Kohji AsakawaによるPixabayからの画像

昭和30年代の心の豊かさは今では得られないのか

何もなかった昔は生活も不便で何をするにも時間がかかった。
家電製品もなく、現在のような合理的な文化的生活とは掛け離れていた。
しかしその当時に思いを馳せると心の豊かさを感じるのは何故だろう。

昔懐かしい生活

私がものごころついた頃はまだインフラストラクチャーの整備もされてなく、井戸に設置してあったガッチャンポンプで水を汲み、土間に設置してあった「くどさん」と呼ばれるカマドで料理がなされていた。

既に都市部では上下水道やガスなども普及していただろうが、人口も少ない田舎の家では当たり前の光景だった。
その田舎の家の中でも我が家は古く、居間には囲炉裏があり天井もない梁を煤(すす)で焦がしていた。

祖父が引く荷車の荷台に座り遠く離れた畑までの道のりは、穏やかで心地いい空気感で満ち溢れていた。
夕方になると竹筒の先に小さな穴を開けた「火吹け竹」を使って風呂を沸かしていた祖母の横で、何を考えることもなく炎を見つめていた。
秋にはその火の中にくべた栗の実がはじけて香ばしい臭いが漂い、暮れ行く日の情景のひとコマになっていた。

物で満たされた現在との違いは

暇な時間もスマホさえあれば退屈することもなく、レンジでチンするだけで腹は満たされ、どこに行くにもさほど時間は掛からない現在は、昔と比べてどのくらい豊かになったのだろう。

確かに不便を感じることもなく清潔な生活は、昔にはない安全で健康的な生活を満たしてくれているだろう。
そんな現代的な生活の代償にはお金を稼がなければならないが、そのプロセスにストレスを伴わないなら豊かさという面で昔の比ではないという人の方が常識的に思える。

しかし何か分からないがそこには失った感情があり、心の豊かさの面で昔のような空気感に憧れを持ってしまうのは何故なのだろう。
ただ懐かしいだけのものではなく、取り返しのつかないものを失ったような気がすると言っても決して大袈裟ではない。

その違いを表現しようにも、ハッキリとした感情でもこうしたいといった欲求でもないようで言葉にはならない。

昔味わった感覚には自然の音や光に時間の流れが影響していたのか

小学生の頃、新聞配達をしていたこともあり暗い内に起きることが日課になっていた。
夜が明ける頃、フクロウの声に始まりニワトリが叫び出す。
明るくなってスズメなどが飛び回ると牛の鳴き声も響いてきた。
春先にはカエルが賑やかで夏過ぎの夕暮れには決まってヒグラシが騒いだものだ。

冬には小学校でストーブ当番に当たった日は小枝を束ねて作った焚き付けを持って登校した。
その話しをひと回りほど歳下の人にすると「二宮金次郎でもあるまいし、そんな時代ではなかったでしょう」と笑われたが10年程度で大きく変わる時代を過ごしたのだ。

達磨ストーブで石炭をいこす(火がついて燃えること)ために新聞紙をクシャクシャにしてその上に持ってきた小枝を置き石炭を入れる。
マッチで新聞紙に火を付けるとパチパチと音をたてながら小枝に燃え移る様子は、今だに薪ストーブに憧れるこの年代の原点になっているのではないかと思えてしまう。

その頃は肌に触れる日差しも目に入る光も柔らかく、流れる時間はゆったりしていたと思うのは気のせいなのか、それとも人の記憶とは辛いことは忘れやすく懐かしい感情が心豊かな思い出へと歪めてくれるとでも言うのか。

李子柒(リーズーチー)の映像に世界の人が憧れるのは

中国四川省の田舎から、スローライフの動画を発信している李子柒(リーズーチー)という人の生活風景に憧れを抱く人が多いようだ。

世界中から注目されているその映像の中には、我々日本人の忘れていた記憶を蘇らせるのに充分な風景が美しく映し出される。
忙しなく働く女性の日常に何故か昔の記憶を引き出され、心豊かにゆっくり流れる時間を感じ取ることができる。

カマドの薪が燃える炎の温もりや風に揺れる木々の花々、朝霧煙る山々や自給野菜を使った料理の数々など懐かしさの中に何故か心が癒される。

彼女のビデオブロガーとしての素顔はさておき、この映像から感じ取れる空気間は特に我々の年代には懐かしいものだ。
映像の中には鶏や豚をダイナミックにさばくシーンも含まれるが、昔には日本の田舎でも見慣れた光景で石臼や竹で編んだ籠なども情緒漂う。

もう昔に戻ってこのような生活はできるはずもないが、次にリフォームする機会があれば土間を作ってカマドを設置するのも悪くはないかと妻と冗談を言ったほどだ。

李子柒(リーズーチー)