定年退職後の得体のしれない不安から逃れたい

Manuel AlvarezによるPixabayからの画像

定年退職後、社会から切り離されたことでの悩みとは

定年退職して会社という組織から解放された喜びは自由になることに尽きる。
しかしその後、自由に生きることでの苦悩が増えてくることはこれまでにも書いてきたとおりだ。
特に得体の知れない輪郭のない不安に幾度となく苛まれるが、その不安から逃れるためにはどうすればいいのだろう。

社会から切り離されて感じる得体のしれない不安

最近知人に会うと「とっても楽しそうですね」などと言われることが多くなった。
どうして最近になってからそのように言われるようになったのか考えてみると、人に会って話すことが少なくなり、たまに人に会っただけで嬉しくて心が弾んでいるからだとしか思えない。

普段はウォーキング程度しか外に出ないことも多く、引きこもりも板についてきたと思っていたが、内心はそんな自分に満足しているわけではないのだ。
ひとりの時間が多いという環境が世界を狭くし、「考え過ぎの悪循環」を自ら招いてしまっているようだ。

何とかしようと思っても何もしないまま時間だけが過ぎて行き、正解のない答えを探して頭だけを動かし続けるが、元々そんな頭脳派でも慎重派でもないはずなのだから、自分らしくないと思いつつも行動できない自分にもどかしさを感じているのだ。

世間的にはそんなことはほんの小さな悩みでしかないと言われそうだが、こうしてブログに書くことで得体の見えない苦悩の正体を明かそうとして戒めているのだ。
人に会えば平然と楽しそうに振る舞うのはそんな苦悩を隠したいからではなく、本来の自分に戻っていると感じたいからなのだろう。

おそらくこのような言葉では説明しにくい悩みや欲求を抱えている定年退職者も多くいらっしゃるだろうが、そんな悩みや欲求は人それぞれで人に話して理解して頂けるようなものでもない。
定年退職者の社会から切り離された寂しさや小さな苦しみは、誰もが解決する当てもなく悶々と抱え込んでいる。

考え過ぎると楽しく生きることが難しくなる

頭を使っていくら考えたところで得体のしれない不安が解消される訳でも、言語化できない欲求が満たされる訳でもない。
返って考えれば考えるほど小さな不安を大きく育てることにもなりかねない。

楽しく生きたいと考えることも逆に人生をつまらなくしてしまいそうだ。
楽しく生きるにはどうしたらいいと考えるのではなく、何かに夢中になっている時に楽しいと感じているというのが素直な感情だと言える。

考えるのは不安の解消法ではなく、現実に行っていることや今から始めようとしていることのポジティブなモチベーションに繋がる思考の方が不安の解消に貢献してくれそうだ。
そのひとつのポイントとなるのが社会との関わりを意識することだ。

社会との関わりを意識することで不安は消えていく

特に定年退職してある程度の時間が経ち、社会から切り離されたと感じて不安を募らせている人は、小さなことでもいいから社会との繋がりを意識すると、自分自身の存在感を取り戻す切っ掛けになるようだ。

サラリーマン時代には社会との繋がりを敢えて意識しなくても当然のようにコントロールされた感情を持って過ごしていたが、社会的責任のなくなった定年退職者はそんな自制心すら弱まっていることが多い。
自制心が弱まると何をやろうとしてもその意味を見い出せなくなり、その結果やる気が衰弱して不安が募ることになるのだそうだ。

そのため敢えて社会との繋がりを意識し、ほんの少しでも社会に貢献していると感じることがポイントになる。
「自由の違和感」としか表現できないような得体のしれない不安は、定年退職者の側に貧乏神のように居座る傾向が強いからだ。

今やっていることに何の価値も社会的影響も感じ取ることができないのは、自由という環境の中からただ心の豊かさや楽しい感情を探し求めているだけだからだ。

小さな喜びを積み重ねて充実感に変える

最初に書いたように私が最近感じている不安でもあるが、定年退職して時間が経過するに従い幾度も襲われてきた不安が、「このままでいいのか」「今の自由は意味があるのか」など抽象的で実体のない「心の曇り」としか表現のしようがない不安だ。

このような自分への戒めのために書いているような文章や言葉も、ほんの少しでも共感して頂ける人に届けば喜びを得ることができる。
多くを望もうとは思わないが、社会との繋がりを少しでも感じることができれば不安は解消されていくと信じたい。

このように小さな喜びをひとつひとつ積み重ねて行くことで、充実した日々を実感できることができればそれで良しとしよう。

多くのサラリーマンとして生きてきた人が、自由という環境をコントロールして使いこなせるようになるのには、この得体のしれない不安というハードルをひとつひとつ飛び越えて進むことになるだろう。
そのエネルギーとなるものが社会との繋がりを意識して得た小さな喜びでしかないのかもしれない。