60歳過ぎて死生観を持つ理由

死の覚悟と死への意思

祖母の死での経験から母にも聴いたことがある。
まだ母が元気な時、「もし病気になったら延命を望むか?」と聞くと「畑にも行けず歩くこともできないなら延命などいらない」とハッキリ告げられた。
その後「食べる楽しみも奪われるなら殺してくれ」と言ったことがあるがこの時は既に認知症が進んでいた。
母が認知症になり脳梗塞で倒れその後歩くことも食べることもできなくなって、医師から胃瘻(いろう)の相談を受けた時「回復の見込みのない延命ならしないで下さい」とハッキリお断りできたのも本人の意思をしっかり聴いていたからだ。

今でも全国で胃瘻(いろう)などの処置で延命されている人は多くいると聞くが、それが本人の意思なのか家族の意思なのかは公表されていない。

もし自分なら無理な延命などしてほしくはないし、もし回復の可能性がある場合であっても苦痛しか伴わない人生しか残ってないのであれば死を選びたい。
だがこのような死生観は妻や子どもにハッキリと伝えておかなければ「死なせることは可愛そうだから」となかなか死なせてもらえないことになる。

現在は心臓さえ強い人なら生かそうと思えば何年でも延命させることができる。
医療技術の進歩が日本の平均寿命を押し上げていると言っても過言ではないだろう。

そのような日本の医療実態からも言えるのが「死にたい時にしなせろ」というハッキリした本人の死の意思だ。
認知症になり脳梗塞などで寝たきりになれば、自分の意思をハッキリ示すことも困難になるからだ。

時には「お父さんもう少し頑張って生きようね」などと子どもから言われれば父親を想う優しい言葉に聞こえるが、本人の意思に気付いてないこともあるだろう。
できる限り詳しくハッキリした意思表示を元気な内にしておくことも、自分の死生観を貫くことに繋がるのだ。

人によって異なる人生観や死生観

70代の先輩で生きることへのこだわりを強く感じる人がいる。
すい臓がんを患いステージ4と診断されたが何時間にも及ぶ手術を行い、その後復帰を果たして今も元気に思ったままの人生を送っておられる。
この人を見ているとしっかりした人生観や死生観を持ち、必ず自分の思いのままに生きようとする強い意志を感じるのだ。
だからたとえ死の宣告を受けようが「まだやり残していることがあるから死ぬ時ではない」という強い意志は崩れることがないように見える。
「自分の意思で生き自分の意思で死ぬ」と私も言いたいがそんな風に豪語できる人は羨ましい。

今はまだ元気なので死を意識することも難しいが、目標は80歳まで旅行に行けるほどの体力と気力を保つことだ。
「人生100年と言われる時代に何を言ってるんだ」と言われそうだが、公表されている平均寿命や平均健康寿命を見るとそんなに強気にはなれない。

いくら長生きがしたいと言っても旅行にも行けずやりたいこともできないなら私も死を選ぶだろう。

死ぬときに苦しみたくはないと考えるのは私だけではないと思うが、もし死ぬことに苦しみや痛みを伴わないなら、死の恐怖も和らぐに違いない。
苦しみや痛みと戦うことができるのは、未来に希望が持てる時に限られると思うからだ。

だがこれは私の考えであって先ほどの先輩と同じようにはいかないだろう。
もっと早く諦め希望もなくしているやもしれない。

死生観は強く生きるための価値観

60歳過ぎれば誰もが自分の寿命を意識したり健康でいられる年齢を予測したりするのに、死は免れることはできないという常識に向き合おうとはしない人が多い。
死という言葉がどうしても悲観的に感じるからなのだろうが、今という生きている時間を大切に強く生きるためにもう少し前向きに自分の死を考えたい。

そのためにも今まで持っていなかった信仰心や宗教にも興味を示し、これからの人生の過ごし方を考えるとしよう。
やり残したことではなく、死ぬ時期を設定してそれまでにしたいことを考えることが生きる力になるだろう。

まだ死にたくはないが、いつか必ず来る死ぬときに備えて、今をしっかり生きぬきたいものだ。

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