60歳過ぎて死生観を持つ理由

Phramaha Narinthep ThongchaiによるPixabayからの画像

60歳からは死を受け入れて今を強く生きる

例え友人と酒を酌み交わしたとしても死生観について語ることはない。
死という言葉の持つイメージがネガティブとしか受け取れないからだろう。
だが60歳を過ぎていれば死の順番はすぐに廻ってくる。

死の順番は既に来ている

私はこれまで3人の家族の死に立ち会った。
ものごころついた時には父はいなかったので、祖父と祖母に次いで母と見送ったのは順序通りと言える。

次は私の番になっていることは紛れもない事実だが、まだ自分の死に対して考えたこともなければ受け入れ態勢が整っている訳でもない。

人は言わないだけで誰でも人生観や死生観のハッキリしたビジョンを持っているのが普通なのではないだろうかとさえ思えて不安になることがある。
そんなことを考えるのは病気になった時や、健康診断で要再検の結果を頂いた時だ。
死生観というものは、元気な時には頭の片隅にも出てこないのが普通なのではないだろうか。

若い時ならいざ知らず、60歳も過ぎれば一度真剣に自分の死について考えてみるのも悪くはなさそうだ。

祖母の死で感じた死と向き合う決断

祖父が亡くなったのは40年も前のことなので記憶も薄れているが、祖母が亡くなった時は19年前とはいえ記憶に強く残る決断を求められたことから忘れることができないでいる。

私が40代前半だった頃の大晦日、同居していた93歳の祖母が餅を喉に詰めて救急搬送されたのだ。
私はたまたま外出していたが連絡を受け病院に駆け付けた。
祖母の喉に詰めた餅を気が付いた時に家族が取り除いていたことが幸いして一週間程度の入院で家に帰ることができた。
その祖母が帰って最初に言ったのが「喉に詰めた餅をそのまま取らずにいてくれたらよかったのに」であった。
気が付いた時は既に意識をなくしていたものだから「そのままにしておいてくれたら楽に死ねた」と言うのだ。

救急搬送された病院で医師から「何とか生命は取り留めました。意識も戻りましたのでもう大丈夫です」と言われた時、私たち家族は安堵して胸を撫で下ろした。
しかし当の本人は「ああ、まだ生きている。やっと冥途へ行けると思ったのに」と悔やんでいたのだ。

90歳まで動力ミシンで内職をしていたが不景気で世の中の仕事が減った時、「人の仕事を取ってまでしたくない」と言って仕事を辞めてから生き甲斐をなくし、生きるのが辛かったようだ。

そんな祖母が次の年に今度はミカンを喉に詰めて救急搬送されたのだ。
今回は詰めた物もなかなか取れず救急車が来る時間も非常に長く感じ、救急治療室の前で「今回は駄目かもしれない」と覚悟をしていたら、医師から「今回も何とか命は助かりました。ですが意識の回復はまだです」と告げられた。
その時、前回家に帰って祖母が言った言葉を思い出していた。

数週間が経って担当の医師から「相談したいことがある」と連絡があり病院へ行くと、「お歳がお歳なので意識を取り戻す可能性は相当低いと思われます」「今は人口呼吸器で心臓は動いていますが脳死と言える状態です」と今後の処置についての相談だった。
ハッキリ言えば「もう歳なので回復の可能性はなく家族の意思で人工呼吸器を外し楽にさせてあげるか、命の続く限りどんな方法をとっても生かしてあげるのかの選択をして下さい」ということだった。

祖母には母を含め実の娘が3人いたが、その判断を祖母と同居している家長である私に任せると責任を押し付けてきたのだ。
「何日に人工呼吸器を外して下さい」というような薄情なことは娘の私たちにはとても言えないと思っているのだ。

おばあちゃんっ子だったとはいえ孫の私が判断することではなかったが、本人の思いを十分理解していたのでこれ以上の延命を望んではいないと判断し、葬儀なども考慮して金曜日の午前10時に人工呼吸器を外して頂く決断をしたのだ。

遠方に住まう娘(私の叔母)も含め家族の見守る中で人工呼吸器を取り外して頂いたが、医師からは「本人の力では呼吸できないので呼吸器を外すとおそらく15分から長くても30分程度で逝去されるでしょう」と聴いていた。

ところが30分が過ぎても1時間を過ぎても心拍数を表す機械から波打った波形が消えず、命が途絶えたことを表すピーという持続音には変わらないではないか。
結局2時間過ぎてから祖母の命が途絶えたのだが、その間「私の判断が誤っていたのではないかとか、祖母はまだ生きようとしているのではないか」といった罪悪感とも言える気持ちに苛まれた。

その後医師から「信じられない程の強靭な心臓の持ち主だったようです」と聴かされたが、今でも祖母の「今度は何もせず楽に逝かせてほしい」という言葉に救われていると感じている。