友人の死で思い知る諸行無常!「友人に手向けるブログ」

truthseeker08によるPixabayからの画像

美しい友情ほど儚くて悲しい!

友人の訃報を聞いてから一カ月になろうとしている。
高校時代に同じクラブで活動していた気心知れた仲間のひとりだ。

その時は突然の連絡で実感がわかなかった。
「昨日の夜、風呂に入ったまま逝ったようだ」ともうひとりの仲間からの電話だった。

「コロナ禍で通夜も葬儀も身内だけでとりおこないますが顔だけでも見てやって下さい」と彼の弟から連絡を頂いて最後の別れを告げに通夜会場へと赴いた。

棺を覗き込むと紛れもなく一年前に出会った時と変わりない彼の優しそうな顔だった。

友人との最後の別れ

「先に逝くことになったがお前は俺の分まで長生きして人生を楽しんでくれ」

棺の中に横たわる彼がそんな風に私に言っているように思えた。

私も彼に言った。
「苦しむこともなくポックリ逝くとは少し狡くないか」

彼が言い返してきた。
「逝きたくて逝った訳じゃないから許してくれ」

最後に私はこう言って彼と別れを告げた。
「お前が生きることができなかったこれからの時代を少しでも多く見て次に会った時に話してやるよ」

心の中でそう言うと彼の顔がほんの少し微笑んだように見えた。

時間にして一分程度の呆気ないほどの別れだった。

美しい友情の思い出は儚いという字の如く

共に青春を過ごした仲間の死を見たのは初めてで、この現実を自分なりにどう受け止めるべきなのか正直戸惑った。
訃報を聞いた時は真っ暗な山の中でひとり車中泊旅をしていたせいで、その友人と過ごした思い出を振り返るのには好都合の状況だった。

敢えて意識しながらひとつずつ過去を思い出そうと努力するが、どうしても途中で繋がらないこともあり現実であったはずの過去も夢と変わらない記憶の曖昧さを思い知ることになる。
それでも思い出した内容のすべては若いころの美しい友情物語だと言えるものだ。
中でも忘れることもできないほど楽しかった出来事は40年以上も経過したとは思えないほど褪せずに頭に残っている。

美しい友情を思い出すほど人生の儚さを感じて悲しくなり、人生の儚さを感じて悲しくなるほど美しい友情を思い出すのは正に儚いという読んで字の如くでもある。

友人の死が諸行無常を気付かせてくれた

おそらく友人は死の覚悟もなく逝ってしまったのに違いないが、これこそが人の死が無常と言われる所以なのだろう。
「諸行無常」という仏教用語を聞いたことはあっても普段考えることもしないが、こんな身近に死を見ると諸行無常が誰もに共通した常識なのだと教えられた気がしてならない。

死と向き合おうが向き合わなかろうがいずれ近い将来自分にも死が訪れるのは間違いない。
その時になってから覚悟をすることなど意味すらないのだろう。

もし死の覚悟をするのなら今でなくてはならないと言うことだ。

人生が終わるということは時間は勿論お金や欲など一切の価値がなくなると言うことでもあるが、言い換えれば生きている今こそが極めて価値が高く貴重と言えるほど尊いと言うことにもなる。

友人との最後の別れで「これからの時代を少しでも多く見て次に会う時に話してやるよ」とは言ったものの、これは私が彼に言ったのではなく彼が最後に私に言わせたと受け取ることもできる。

つまり「貴重な一日一日を大切に過ごし、世の中の多くの出来事をその目で見て価値の高い人生を送ってくれ」と言わんばかりにだ。

若くで死んだ友人の人生はメリーバッドエンド型人生だった

確かに64歳で死ぬのは若すぎると言えなくもないが、彼は充分に自分の人生を全うしたのだと言い切れる。
彼は私たちと一緒に青春を楽しみ結婚して子どもを授かり死の間際まで仕事をした。

彼に関わったそれらの人々に何らかの価値を与えながら多くの人の人生にも影響を与えたのだ。
それだけで彼の人生にも深い意味があり、私の人生の価値の中にも彼の人生と交わったものがある。


そして最期まで誰にも負担を掛けることもなく逝けたのは彼が幸運だったからなのか羨ましささえ感じてしまう。
それは決してフェードアウト型人生ではなく私も希望するメリーバッドエンド型人生だからだ。

誰の人生も無常なのには変わりはないが、それだけに生きている今が尊いのも確かな事実だ。
私も友人の死を見なければ諸行無常の意味すら置き去りにして人生を送っていたに違いない。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加