定年退職後の時間概念

hodgesce13によるPixabayからの画像

定年退職後の時間には限りがある

定年退職前と後では自分の中で何が一番変わったのかを考えて見た。
変わったことは多くあるがその中でも一番違いを感じるのは時間の考え方だ。

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時間は有って無いようなもの

人にとって誰にも公平に過ぎて行く時間だが、公平でないのは人によって、又は使い方によってその価値が大きく異なることだ。

退職前は当然のように会社の利益のために多くの時間を使ってきた。
それは家族を守るためとか生活を豊かにするといった大義名分があったのは誰にでも理解できることだ。

その頃は明日や未来は当たり前に来るものと、これからの時間について何も考えず不安なども感じたことはなかった。
時には時間が早く過ぎてくれないかとさえ思ったことがあるのも事実だ。

しかし退職してからふと考えるのは、確かに今まで過ごした時間は有ったが明日の時間は本当にあるのだろうかと思うようになったことだ。
次の一瞬さえも保証されてないのは間違いない。
明日以降の時間は絶対あるのではなくおそらくあると言うのが正論だろう。

今日の新聞でも60代の人が亡くなっている現状を目にしたが他人事ではない。
確かに60歳の人には誰も60年の人生を持っているが、その人たち全員が後20年の人生を約束されている訳ではないと言うことだ。
今からの人生に与えられる時間は平等ではないと言うことでもある。

定年退職前と後のくつろぎの時間

特に土日は朝起きて朝食をとってからテレビを見たりダラダラと時間を過ごしいつもの行動をするのが遅くなる。
その時は自分の中で心が葛藤しているのだ。

ぐうたらな自分:「土日ぐらいゆっくりくつろいでもいいじゃないか」
不安な自分:「おいおい、土日とはいつも会社などで働いている人のことで、お前には平日も土日もないだろう」
ぐうたらな自分:「他の人が土日でゆっくりしているのに私だけがバタバタしなくても」
不安な自分:「それは他の人より体や神経を使って働いている人の言うことだろう」
ぐうたらな自分:「いや、テレビを見ていても色んな情報が入ってくるのだから何もしていない訳ではないと思うが」
不安な自分:「何を言い訳じみたことを言っている、そんな時間にさほど価値がないのは自分が一番分かっているはずだろう」

会社に勤務していた時、休みの日の朝をゆっくりくつろぐのは当然というよりストレスから解放されるなくてはならない時間だったのかも知れない。
定年退職した今もその当時の習慣を引きずっているとしか言いようがないが、同じくつろぐ時間でも価値が違うのは明らかだ。

定年退職した今、少しの時間であっても無駄に過ごすことが不安に繋がるのは充分自覚している。
とにかく何か行動していないと不安が貧乏神のようにまとわりついてくるのだ。
おそらく定年退職してから未だに何も得ていない自分が焦りの不安に苛まれているに違いない。

継続は価値なり

一生懸命何かを取り付かれたようにやってさえいれば、その不安だけは解消されると最近気が付いてはいるのだが凡人の血が邪魔をするのか何をしても続かない。
「継続は力なり」の格言はこの60年の人生で最も反省しなければならない三日坊主の悪癖を戒める言葉だ。

最近では「継続は価値なり」と変えたいくらい継続に必要な時間を大切に考えている。
私にとって価値ある時間とは、遣りたいことに夢中になって取り組んでいる時だ。
今となっては唯の趣味とも言えない遣りたいことに使う時間も、大切な価値ある時間だと認識しなければならないのだ。

この記事を書いている時間は基より最近取り組んでいる筋トレやダイエット、更にはハノンを弾くことなども価値ある時間だと認識しているが、途中で挫折して止めてしまえばその時点でこれまでに費やした時間さえも価値がなくなるのではないかと怯えている。

継続が力となり価値となって返ってくるのはそんなに早くはないと分かっていても、僅かな報いさえ求めてしまうのが最早謙虚さを失っている証しだろう。

定年退職後の時間の使い方

退職後に決まった仕事をしないのであれば、時間だけは余程しっかり管理しなければ大きな価値あるものを失うことになると考えなければならない。
多くの時間をうまく使い分けてこそその時間の価値は高まり、報われる保証は無いが希望には繋がる。

とにかくダラダラと価値のない時間だけは減らさなければならないが、それだけでも充分とは言えない。
今使っている時間も正しい使い方ができているのか見直すぐらいがちょうどいい。

サラリーマンの時にはさほど考えもしなかったが、これほど時間に神経質にならなければならなくなるとは思ってもみなかった。
とは言っても今も尚、思っている以上に無駄な時間を多く使っているのは否定しようがない。

更に人によっても環境によっても変わるだろう時間の価値などという目に見えないものは、信じようとする方がどうかしているのかもしれない。
見方を変えれば、そんな風にぎすぎすと時間ばかりを気にしているようでは、心豊かな楽しい人生など送れるはずもないと言われても仕方ないだろう。

正しい時間の価値がどこにあるのかなど、私のような凡人にはいくら考えても答えは出てきそうもない。

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