定年退職を決断する勇気は個々の能力の見極めか?

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自分の意思で定年退職する満足感!

2017年60歳になった年の秋、このブログの最初の記事を書いてからもうすぐ丸3年になろうとしている。

3年前のこの時、誰が新種のコロナウイルスによって世界中が脅かされると考えただろうか。この年に戻るなら、「まさか」としか思えない世の中が3年後に到来してしまったことになる。

最初の記事を書いた次の年(2018年)の春、予定通り継続雇用制度を一年で打ち切り退職した。

優柔不断な悪癖に打ち勝つため、退職の前の年(2017年)から部下に「来年は退職するからな、そのつもりでいてくれ」と機会がある度に伝えていたが、私が優柔不断だと見抜いていた部下たちも「本当に辞められるんですか、ほんとうに?」などとその覚悟の信憑性を図ってきたりもした。

今、当時の思いを振り返っても少し早い退職という行動には相当の覚悟を要した。

相当とは、継続雇用制度で65歳まで勤め上げた場合に受け取れる収入を早めの退職で失う金額という意味に相応しいものだ。

その金額は、いくら定年後引き下げられた給与とはいえ合計すれば「失うとか捨てる」と表現するのは「清水の舞台から飛び降りる」と等しいくらいになるだろう。

人より少し早い定年退職を選んだことにもし価値をこじつけるとするのなら、人生で最も大きな最後の分岐点を自分の意思で決断したという満足感くらいのものだ。
サラリーマンでしか生きることができなかった最後の自分への反抗だったのかも知れない。

定年退職準備に必要なのは時間ではない

これまで何度かこの「定年退職の準備」という題目を考えてきたが、どうも自分が経験をした反省を公開したところで、これから定年退職を迎える人に大いに有益な情報になるとは思えなくなってきた。

なぜなら「定年退職の準備は早い方がいい」とか「50代から準備をしておくべきだ」などと先輩面して言ったところで、あくまでそれは私個人の反省でしかないと今更ながら気付いたと言うほかないからだ。

例えば過去の私に10年という定年退職準備期間がもしあったとしても、2020年の今の状況がさほど変わってはいなかったであろうことは自分が一番的確に想像できる。

50代前半で定年退職後の人生の準備を意識すると言っても節約して老後資金を増やすことくらいしか思いつかないのは間違いない。

言い換えれば「定年退職後の準備」と敢えて意識しなければならないのは、自分の能力に自信もなく行動する勇気もないと自覚しているからに違いない。

もし能力と勇気があるなら何も一生サラリーマンとして過ごす必要もないだろうが、一番の問題があるとするならその能力や勇気は自分では測りにくいということではないだろうか。

能力や勇気が人生を左右する

「一生サラリーマンで終わりたくない」と考え、子育てが終わる50代から準備に取り掛かるとしよう。

サラリーマンをしている内に国家資格の宅建を取得し、小さな不動産屋を開業するのが夢とする。
しかし宅建は取得できたとしても、不動産屋を開業して軌道に乗せる能力が自分にあるのかないのかはどんな方法で判断するべきなのだろう。

有資格能力と行動能力はまったく別物と言っていいからだ。

例えが極端かもしれないが、最近世間を賑わした、「ヘ」から始まる迷惑ユーチューバーの勇気は人並み外れているものだったが、人を喜ばす能力に至っては誰もが迷わず大きなマイナス点を付けるだろう。

しかし当の本人がなぜ勘違いをしてしまったのか不思議としか言いようがない。

ただ、そこまでではなかったとしても自己の能力に関してハッキリとした輪郭を持って見えている人も少ないのではないだろうか。

もしサラリーマンが老後を見越して定年退職の準備をするとするなら、自己分析をして能力を見極めるのが先なのかも知れない。

その能力には何も金儲けの能力だけではなく、周りの環境が変わった時の順応力や孤独感に対する心理的適応力なども含めておいた方がいいだろう。

定年退職を控えた現役サラリーマンの方々に先輩面して経験を語るとするなら、定年退職前後で変わる環境変化は想像以上だと伝えることくらいだ。

生産性のない時間を無駄だと感じなくなってこそ自由が手に入る

長年サラリーマンをしていると時間に対する価値観が敏感になっていたりする。

何もしていない時間を「無駄な時間を過ごしてしまった」と感じたり、何かをしていても結果がなければ「無駄な時間だった」と思うことなどだ。

長年サラリーマンで培った時間の価値観が定年退職後の自分の首を締めかねないということだ。

最近はコロナ禍でテレワークが普及したことから、現役のサラリーマンであっても時間価値に敏感にならざるを得ないと感じた人も多いはずだ。

サラリーマンにとっては、ビジネススーツを着ている時間こそが生産性を見い出す価値ある時間だと馴染んでいたからだ。

テレワーク中のサラリーマンにWebビデオ会議がない日であっても、わざわざビジネススーツに着替えて家の中で仕事をしている人が少なくないのもそのためだろう。

統計数字を見た訳ではないが、おそらくサラリーマンキャリアの長い人ほどそんな人が多いのだろうと想像できる。

定年退職者が現役当時着ていたビジネススーツを、退職して一年以上捨てられないのも同じような理由からではないだろうか。

服装だけでも時間の価値が変わると頭のどこかで敏感に感じているのだから、定年退職して服装どころか通勤や組織、顧客などあらゆる社会的繋がりから解き放たれた自由は、逆に無駄だと感じる時間に支配されることになっても仕方ないだろう。

まだ定年退職初心者の私にはその無駄だと感じる時間の束縛から逃れる術を知り得ていないが、その無駄な時間が淀みなく流れた時こそが真に自由を手に入れた時なのかも知れない。