期待は裏切られる
期待してはいけない訳
同じような意味に勘違いしてしまいそうなこの期待と希望は、どちらも望みをかける要素を含みながらも相反する言葉なのだ。
「定年退職後は心豊かに暮らしたい」などと、豊かな心の意味すら深く考えずに今を生きているが、どうもこの二つの言葉の持つ意味が豊かな心と係わりが深いと思えてならない。
なぜ豊かな心を手に入れることを期待してはいけないかというと、豊かな心は自身の心を差しているにも関わらず、期待とは他人を当てにした言葉だからだ。
豊かな心とは、それが例え親兄弟であっても与えて頂けるものではないということを知っておかなければならない。
そしてサラリーマン社会に於いて期待という言葉は、幾度も安易に使われてきた。
上司が部下に対して「期待しているぞ」とはそもそもどんな意味があるのだろう。
言葉を変えれば「当てにしているぞ」となるが、誰の幸せを願っている言葉というのだ。
「頑張って早く成果を出してくれ」といった思いが、その部下の幸せを心から願った物でないことだけは明らかだ。
人の幸せを願える心そのものが、自分の心を豊かな物に変えてくれるのだろうことを考えれば、そのような言葉を安易に使う上司の心もまだまだ豊かではないのだろう。
他力本願と取れる上司の「期待しているぞ」は、「あなたの努力で私が幸せになることを願っている」とも解釈できるのに、それを聞いた部下は「自分は上司から信頼されている」と信じて疑わない。
期待とはパッシブ(受動的)な心そのもので、自分の意思から動かされるものではないことから、先ずこれを捨てなければならない。
しかし持ってはいけない期待といわれる心は、いつも自分の頭を占有しようとして、幾度となく裏切られる。
60年も生きて報われることがないと分かっていながら、他力本願を繰り返してしまうのだ。
希望の意味
このような短期的に使われる期待に対し、長期的に願う希望の特徴は忘れて見失ってしまうことが多いということだ。
希望とは自分の未来を願うことなので常に意識して決して忘れてはならないはずなのに、常に持ち続けることが困難で諦めや挫けるといった思考に負けてしまうのだ。
希望とは期待とは反対のアクティブ(能動的)な感情で、諦めずに願い続ければいつの日か必ず叶うと信じなければならない感情だ。
希望とは未来の望みで叶えるために存在する意識だ。
叶えるためには叶うまで継続した行動や諦めない精神を伴うが、それが辛いと感じるようでは幸せには繋がらないのだろう。
楽しく継続して叶う希望が存在してもおかしくはない。
ただ私の抱いているような希望も、人頼みであったり誰かを当てにしても叶う物でもないことは分かっている。
「最後の人生を心豊かに生きることだ」といったところで、そもそも豊かな心などと漠然とした考えは本来の意味を紐解くことすら難解に感じるが、それらの意味を1つずつ考えながら希望に変えて行くことが、今自分に求められていると感じている。
例えば健康であったり、美しいものを見て美しいと感じる心、質素な食事も美味しく頂けたり、人を敬い、命の尊さを感じることや、いつも安定した情緒、穏やかな心で過ごすことなど、挙げればきりがないほどの心理状態や身体を作り変えて行くことなのだろう。
そんな綺麗ごとだけでは生きていけないだろうと考えながらも、希望とすることで自分が変われるのなら間違ってはいないと思う。
「期待は捨て希望を持つ」という不思議なパワーを持った言葉を、見失うことが無いよう朝昼晩と念仏のように唱えながら胸に刻むことにしたい。
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