先進国日本にも哀れな心の持ち主はまだいるようだ
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60歳過ぎて退職してから毎日家の近くをウォーキングしているが、これは健康になるためと言うよりは健康を維持するためと言った方が本来の目的には合っている。
このウォーキングルートは山々の間に挟まれた田園と澄んだ水の流れる川沿いを選んでいる、と言っても実際は田舎なのでそんな風景のルートしか選ぶ事ができないのだ。
そんな自然に囲まれたルートは子どものころから育った環境なので何の刺激もなく、さほど変わり映えのしない風景に感動することもなく日常化した散歩道と言っていい。
しかし最近そんな変わり映えのしないと思っていた風景に、美と醜の二面的変化に気が付いた。
最近になって特に美しいと感じるのは、川の水が澄みわたり濁っている日がほとんどないことだ。
子どものころから今に至るまでずっと澄んだ水だったかと言うとそうでもない。
この地域は一級河川の上流に位置しているものの以前はいつも川の水も濁っていて、その原因が上流の工事に起因したものなのかは分からないが、澄んだ水を見るのはたまに来る台風の後だけのように感じていた。
それが今はいつ見ても澄みきった水の上を気持ちよさそうに鴨が泳いでいる。
サラリーマンをしていた頃は何か少しでもトラブルなどの問題を抱えているとき、美しい物を見ても美しいと感じないことは幾度となく経験している。
それも未解決のトラブルで心を病んでいる時などは、満開の桜並木を通っていても何も感じず、「桜が満開ですね」と言う同僚の言葉でやっと気付くほどだった。
しかしそのような心にいつも支配されていては例え身体は健康であったとしても、決して生きることを楽しく感じることはないだろう。
今のように変わり映えのしない風景の中であったとしても、些細な美を感じ取ることができて始めて心身共健康なのだと実感できるのだ。
心を道端に捨てて行く哀れな人とは
ところがそんな田舎の綺麗な田園風景を汚している人を哀れに思えてくる。
田んぼの間を通る舗装された農道で、普段は地元の車しか通らないようなところだが、その道の脇にポイ捨てされたゴミの量が日ごとに増えているのだ。
そのゴミも最近は目に余るほどになってきているが、空き缶や弁当などの容器、買い物時のビニール袋にタバコやタバコのケースがまとめて捨てられている。
それだけでも由々しき事だと感じていたが、今日は紙おむつまで捨ててあったり、2メートルの獣害防止柵の上部から投げ入れられたと思うようなコーヒーの空き缶なども多く捨てられている。
これらのポイ捨てしている人の心は美とか醜の問題ではなく、病的で御気の毒としか言いようがないが、自分の過去の行動を思い出せば、このような病的でお気の毒な行動などまったくしたことがないと言えば嘘になる。
もちろんある程度の年齢になってからはそのような事はしていないと断言できるが、経験があるのだから今投げ捨てをしている人をけなす資格もない。
自分も過去に犯してしまった過ちを反省しながらウォーキングついでにゴミ拾いをしてみたが、この行為は想像していた以上に気持ちがいいと感じた。
拾った次の日は綺麗になった農道を気持ちよく歩くことができて幸せ感に包まれるが、これは心が健康状態になければ感じ取ることができない感情だろう。
しかしその次の日、また空き缶やコンビニの袋が捨ててあるのを見ることになるが、おそらくその人たちは自分の車の中に捨てると車内が汚れるという理由だけで外に捨てている心の不健康な人たちに違いない。
私は「二日前にゴミ拾いをしたばかりなのになんてことをするんだ」とは思わなかったが、そんな風に腹を立てるのではなく「また拾ってあげますよ、あなたが捨てて行った小さな心を」と思うようにした。
このように心をポイ捨てしてる人に、心を捨てない方が人生楽しくなりますよと教えてあげたいが、拾うことで気付いてもらうしか方法がない。
満開の桜並木を見ても何も感じず見過ごしてしまうほど心に病を抱えた人が、道端の小さなタンポポに気付くことはなく、道端に空き缶を投げ捨てて行く人はそれ以上に心を病んでいるのだろうと思わざるを得ない。
豊かな心を拾わせて頂きます
私はその人たちが捨てて行った心を拾わせて頂いて心を豊かにできるのだから申し訳ない。
変わり映えしない畦道にも季節の移り変わりを肌で感じることができるのは、小さなタンポポを見ただけでも心に刺激を得ることができるからだ。
ウォーキングでそんな拾い物をした日は、帰宅後自慢のモニタースピーカーで洗練されたハーモニーに魅せられたペンタトニックスをコーヒーを飲みながら聴くことにしている。
心が洗われるようにそのハーモニーがコーヒーの味覚を引き立たせ味わい深いものにしてくれるが、それは更に情緒を穏やかに導いてくれたゴミ拾い行動のお蔭と言っていい。
心豊かな人生にしてくれるのは決して安定した収入や未来に名を残すような大きな事ではなく、今そこにある些細な出来事に心を傾けることではないだろうか。