定年退職後に幸せを得るために捨てる常識とは?

サラリーマンの悪しき常識依存から解放されるために!

サラリーマンで身に着けた、比較して得る喜びを捨てなければ定年退職後の幸せは薄くなる。
しかし人が本来持っているアイデンティティの概念を取り戻すのが難しいのは、長年のサラリーマン人生で常識化した比較脳に依存しているからだ。

常識化した幸せ価値の概念は必要ない

「幸せの価値は人によって違うが、幸せを感じるために必要なのは比較という概念だ」と言い切る人に多いのがサラリーマンだ。


サラリーマンが日常的に使っている比較基準は数字だが、比較なくして幸せ感は得られない仕組みになっているのが会社という組織だ。

サラリーマンの等級制度や役職制度も、言い換えれば幸せ感の比較基準値としての機能を持っている。

サラリーマンが昇進して幸せを感じるのは、自分より下の役職と比較してのことだ。
一般的には課長より部長の給料が高かったり課長より部長の方が偉いので、幸せを比較する基準材料も等級ランクが上がるほど多くなる。
このような制度は会社が成長するために、誰もが幸せを求めて頑張る最も分かりやすい仕組みという訳だ。

当たり前すぎて今更感は拭えないが、その常識過ぎる比較脳を捨てることこそが定年退職後に幸せ感を強くする唯一の術だと言いたいのだ。
比較して幸せを感じるのが常識だと思って生きてきたサラリーマンにとって、比較脳を捨てることは簡単ではない。

例えば定年退職をして何ひとつ生産性のない過ごし方をしていたとしたら、そこに幸せ感を得るために必要な比較するものを見つけることができないのだ。
しかも在職中に比較する対象が多い等級の高かった人ほどその差の違いに違和感を感じることになる。
それどころか間違って定年退職前と比較などしてしまえば、その全てが不幸感となって返ってくることになる。

「商売を始めた頃は肉や魚も買えずに塩をかけてご飯を食べたこともあるが、そんな苦労した頃も懐かしく感じるよ」とは小さな会社を経営している社長からよく聞いた話だ。
そんな話も昔と比較することで幸せ感を強調したいための材料にすぎないが、他人がその話を聞いて幸せ感を得られるはずもない。
だが、話している当人は更に自分を幸せに導くために他人に聞かせ、「どうだ君にはそんな苦労の経験はないだろう」と人生経験を比較して幸せ感を高めているのだ。

もしその比較する常識脳を捨てることができたなら、幸せはいつでもどこでも人や数字をあてにせずに手に入れられるはずなのだ。

間違っていた幸せ概念を元に戻す

毎日何もせず何も考えず過ごしたのでは幸せな感情を得る材料は作れないが、ほんの少し意識をして知力を使うだけでも幸せ感を掴むことができる。
在職中のような生産性も目標もなくても、その平凡な日常に意義を意識するだけで価値が生まれるという考え方だ。

そこに比較するものは無くても意義のある一日を過ごしたというだけで価値を生み、幸せ感情を意識することができそうだ。
例えば本を読んだだけでも色んな感情が湧いてくるように、幸せな感情も普段の何気ない出来事で感じることができるように意識して過ごすことが重要な気がしているのだ。

ただ、あまりに長い間比較することでしか幸せを掴んだことがないので慣れていないだけなのだ。
よくよく考えてみるとこちらが本来あるべき幸せの形であって、サラリーマンの常識的幸福感こそ異質なのだと気付かされる。

気付かずにマウントを取って感じていた幸せが、比較なしの感情に比べれば幸せ度も低く脆い性質を持っているように思えるようになってきたのだ。
これは定年退職してから4年もかかってやっと掴みかけた感覚だ。

幸せは組織対応能力依存から抜け出したところにある

私がサラリーマンで過ごした頃は、協調性に長けた常識人間こそが会社組織でうまく生きていける時代だった。
倒産などで再就職した時もこの特技を最大限に生かすことで、他の途中入社の人より早く組織に受け入れられたと実感したものだ。

例えば最後にお世話になった会社などは技術系で個性豊かな人が多く、営業職で生きてきた私が受け入れられるには最も難しい組織だと感じたが、それでも一年足らずで「何十年も前からこの会社にいた人のようですね」と言って頂けるほど早く馴染んだものだ。

だがその協調性や常識は会社組織でこそ役に立っただけで、定年退職後は障害にしかならないと感じている。

今でこそ多様性の尊重とかで自身のコンプレックスを隠して無理をする人が少なくなったが、それもここ数年の話だろう。
私も自信を持てない自身の能力を協調性と常識人をアピールすることでカバーしてきたが、いつの間にかそのストレスも限界に達し他の人より早くサラリーマンを卒業したというのが本音だった気がしている。

つまり世間体や一般論に敏感過ぎて、生産性の欠片もない退職後の過ごし方に罪悪感すら感じていると言えなくないのだ。
サラリーマン時代に夢見た自由で好き勝手な今の生活もさほど幸せ感が得られていないのは、退職後四年経った今でも抜けきれない会社組織対応能力依存のせいだと気付きかけたのだ。

必要なのはマイノリティーの世界に慣れる時間

定年退職すれば誰に気を使うこともなく何をしても自由なはずが、自由ラインを超えようとするとその意思に反して脳が拒絶することが多い。
「もうこの籠の中にいる必要はないから自由に羽ばたいてどこへでも飛んでいきなさい」と言われてもその籠から出る勇気が出ないのだ。

私の場合は、籠からは抜け出せたものの、その家のベランダに居座ったまままだどこへも飛んでいけないといったところだ。

籠から抜け出せない多くのサラリーマンは老後の生活不安を理由に雇用延長を利用して居残る選択をするが、一生籠の中で過ごすことができない以上いつかは籠の中の常識が通用しない外の世界に追い出されることになる。

若い時なら時間をかけずに順応できても、定年になるような年齢ではほんの少しの環境変化にも馴染めなくなるということを覚えておく方が賢明だろう。
意識しながら長い時間頑張ってやっとマイノリティーの世界を覗くことができるといった感覚だ。

子どもの頃何もかも忘れて友人とばか騒ぎをした経験を持っている方も多いだろうが、60歳を過ぎてから同じことをやってみろと言われているようなものだ。
そんなことが出来るのはほんの一部の超が付くほど素直な人なのだろう。

もしそうでないなら在職中であれ早くから幸せ感の概念を籠の外の環境に慣らしておくことだ。