60歳を迎え定年退職できれば幸せと思った方がいいようだ。
数年前から企業の人事事情や新リストラといった雇用形態の変化で、定年まで勤めることが困難になっていると指摘する人が増えている。
リストラと言えば企業の経営不振が原因で行われる事業の再構築のことで、具体的には採算の合わない部門から順次撤退していく。
それによって閉鎖された工場や解雇によって人件費などの固定費を削減し、企業収益の改善に繋げるのだ。
このことからリストラの大前提には企業の経営不振という、どのサラリーマンにも分かる確かな理由が存在した。
だが、現在の新リストラにはその理由が当てはまらなくなっている。
例えば直近の決算を見ても黒字で事業拡大している企業が、いきなり40代以上の社員に希望退職を募るといったこともあるようだ。
このような企業が考えているのは、経営不振になってから行うリストラに比べ同じリストラでもその経営戦略効果は比較にならない程高いと見ているからだ。
40代以上の社員の人件費にそれ以上の価値が見えなければ容赦なく切り捨てるというのが新リストラの定義になっているのだろう。
長年会社のために貢献し、これからも貢献していく自負心は強く持っていると思っているのは自分だけで企業側にそんな感情論は通用しない。
なぜ日本の企業がこうも変わったのかといった理由の一つが人材会社にあるようだ。
以前の企業なら経営陣や人事部が人の采配を遣り繰りしていたのだが、今は働く人の采配を人材会社などに外注している。
最近の大手人材会社のコマーシャルを見るだけで、人材会社の持つ力の強さを感じ取ることができるほどだ。
ずば抜けて優秀な人材を人材会社が売りつけるのは経営が困窮している企業ではなく、業績を伸ばしている会社だ。
その人材会社が黒字企業にリストラを提案しているとしたらどうだろう。
従業員個人の会社に対する今までの貢献度や、マイホーム購入や教育費の個人的事情などまったく関係のない話しだ。
「業績のいい会社にいるからリストラの心配はしなくていい」と言えたのは昔の話しで、現在は業績のいい会社ほどリストラの心配をしなくてはいけない時代になってしまったようだ。
会社でどれだけ自分が生産性に価値を見い出しているのか考えると、安心できる人は限りなく少ないのではないだろうか。
定年退職する60代にもなればマイホームのローンも終わっていたり、子育ても終わっている人が多いだろうが、40代や50代のリストラとなればそれらの金銭的不安は重くのしかかって当然だ。
最近では業績に不安のない企業に勤めている中堅社員が突然肩を叩かれるといったことが起きているようだ。
「現在は課長で次期は部長だ」などと期待していると突然左遷の辞令が出たり、辞職を促すような条件が会社側から提示されたりする。
会社に損害を与えたり仕事で失敗をしたような心当たりは何もない人がターゲットになっているから、突然降りかかった失業の不安は計り知れないだろう。
昭和から平成にかけて、一つの企業だけで働いて定年を迎えたサラリーマンは幸せだったのかも知れない。
令和の時代になればそのような人は少なくなり、定年制自体も就業規則から消えることになるだろう。
令和時代の新リストラが増え続ける理由は人材会社だけではない。
働き方改革や外国人労働者、AIなど、最近のどの話題を取り上げても新リストラに結び付く。
外食産業の労働力不足問題までもが、サラリーマンの新リストラを加速させる要因になりかねないのだ。
外食産業やコンビニチェーンの店舗数も飽和状態に労働力不足が輪をかけて限界を迎えているが、そうなれば新しいサービスを開発したり無人店舗などの取り組みなどマーケティングやマネージメントの中堅以上の責任者に柔軟で豊かな想像力が求められるからだ。
昭和平成と伸び続けた業績に必要とされた能力は既に必要なく、勤務年数だけで課長職や部長職に登ってきた人にとっては、目の前に脅威が迫っていると言っていいだろう。
昭和から続いた正社員の終身雇用慣行が令和になっても続く根拠はどこにもない。
武田信玄の「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」の名言はどこに行ったのだろう。
昭和平成に一つの企業だけでサラリーマンとして生きてこれた人は幸せだったと言うしかない。
定年制度がなくなり新リストラのリスクを抱えた令和のサラリーマンは、もうサラリーマンとは呼べなくなり、正社員という雇用形態すらなくなる可能性も低くはないだろう。
そうなれば定年退職後の不安など気にする場合ではなくなるのも時間の問題だ。