過ぎた時間はまばたきほどに短い

あっという間に終わった定年の年

昨年の誕生月末日(2018年3月末)に退職したが、その年は終わり定年後初の退職新年を迎えた。
過ぎてしまえば9ヶ月など瞬きほどの時間に感じてしまうが、何も変わってはいない状況を考えると、その過ぎた月日の行動に疑問を持ち反省しなければならないだろう。

この時期会社にいれば今年の抱負などを発表する頃なのだろうが、今となってはその発表のために取り繕った抱負すら懐かしいと思ってしまう。
だが、いくら取り繕ったと言っても口から出てしまえばそれは言葉の重みとなってエネルギーに変化することを知っている。

思い返せば昨年の抱負は「新しい人生をスタートさせること」だった。
「将来の夢を実現させるために具体的な目標をたて、新しいことに挑戦する」などと、考えて見れば定年退職を正当に美徳化させるための言葉だったのかも知れない。
そうでもしないと優柔不断な悪癖が退職を踏みとどませてしまっていただろう。

そのような意味に於いては現に退職したのだから目標は達成できたといえようが、胸に手を当て正直に自問自答すれば、「新しい人生がスタートした」とは到底いえる状況ではない。
それほど心がサラリーマン時代以上に豊かになったとも思えないからだが、肩の荷を降ろしたおかげで頭の中に考える余裕が生まれたのは確かだ。

今年も既に数日が過ぎてしまったが、ボーっとしていようがいまいが一年など瞬く間に過ぎていくだろう。
過ぎ去る前に残った時間をどう使うか考えなければならないのはいうまでもないが、まだ確かな目標も定まっていないので時間の使い道も見えてこない。

そこで自分にとってあまり意味を持たない時間を減らすことを優先することにした。
例えば居間(リビング)に入ったらテレビのスイッチを付ける癖は未だに治っていないが、それが無駄な時間を増やしている原因なのは気付いている。
いったんスイッチを入れればニュースであれバラエティーであれ、見れる番組(見たい番組ではない)を探してしまうが、それが次の行動を遅らせてしまうことになる。

そのような行動はテレビに限ったことではない。
情報獲得とか癒されたいといった目的も何もなく、ただ時間潰しのようにユーチューブなどの動画を見てしまう。
見たい動画ではなく見れる動画を探してサーフィンしているだけで、意味のない時間を過ごしてしまったことに後悔するほどだ。

そもそも暇つぶしや時間つぶしを真っ向から否定している訳ではないが、今の私にとっては敵と見なすのが理に適っていると思えるのだ。
やってみたいことが沢山あるのにそれらを妨げる行動に過ぎないからだ。

このように書くと「サラリーマン以上に時間に縛られているのではないのか」と思われそうだが、自分がやりたいことに使う時間は少しでも多くほしいと思うのは私に限ったことではないだろう。

60歳過ぎて強く感じることは、身近な人の死や同級生の訃報が明らかに増えたことだ。
誰もが確実に死に近づいているが、宗教関係者でもない限り死を受け入れる準備をしながら生きることはできないだろう。
誰も今が元気なら未来は永遠と思って生きたい。
しかし現実は皆平等に明日の命を保証されている人は存在しないのが現実なのだ。

2019年はまだ始まったばかりなので、計画的に時間を管理できるようにしたい。
使ってはいけない時間を減らし、やりたいことに使う時間を増やすことが重要だ。
どうせこの年が終わるころには「今年もあっという間の時間だった」と嘆くことになるだろうから、一つでも成長したと思える実績を残すことができれば良しとしよう。

私自身には時間が必要だと自覚しないといけない訳がある。
その訳は次回の記事に書くとして、一年の区切りである年が明けたのだから昨年の退職後の9ヶ月を反省し、今年の糧としたい。
過ぎてしまった儚い時を後悔しないために。