60歳から65歳までの5年間、高齢者の門を潜る前に!

Daniel NebredaによるPixabayからの画像

気が付けば終わっている60歳からの5年間

65歳以上の人を高齢者と定義しているのはWHO(国連の世界保健機関)だ。
日本では今や3.5人にひとりが高齢者(65歳以上)なのだそうだ。
そういう私もあと数ヶ月でその内のひとりとなることを自覚しなければならない。

65歳頃の人生変化

同級生の友人が急に亡くなったのも今年になってからだが、それから数か月後にもよく知っている知人の訃報を新聞で見ることになった。
自分の周りで何かが変わっている。
人生を終えようとしている仲間の情報が次々と飛び込んでくるのはこれまでにはなかったことでもある。

自分の人生に関わった同世代の人の悲しい情報が65歳に近付くにつれ急に増えたのは紛れもない事実だ。

このような情報は自分の人生が残り少ないことを自覚しようがしまいが否が応でも考えなければならないことを指し示している。
勿論知人の情報だけではなく自身の体調変化も60歳までとは違い、明らかに悪い方に傾いているのだから死に近付いているのは誤魔化しようのない事実なのだ。

60歳までは一年に一度も医者に行ったことがない年が稀ではなかった私も、この頃は行かない月がないほどになっている。
ウォーキングや食事など健康には留意しているにもかかわらずだ。
それが65歳で高齢者の門という分岐点なのだろう。

65歳は高齢者の門

「明日は我が身と言うことだな」とは68歳になっている友人が最近になって一番よく使う言葉だ。
建築関係の仕事と農業を兼業しているその友人は近くに来る機会があれば野菜などを届けてくれるので非常に助かっているが、その時の会話の内容は知人の悲しい情報で溢れている。
「誰々さんが亡くなったらしいが知っているか」とか「誰々くんが病に倒れて入院しているらしい」といったネガティブな話題だ。

内心「もっと明るい話しはないのか」と言いたいところだが、私より先に高齢者の門を潜っているのだから責めることはできない。
私の友人の中では先陣を切って高齢者の門をくぐり、最後の人生を送っているのだから見習わなければならないところも多くあるのだ。

建築関係の本業もいまだに続けながら、農業も本業と言ってもおかしくないほどの面積をたったひとりで熟しているのだから見上げたものだ。
そんな健康には自信を持っていたはずの彼が最近になって弱音ともとれる言葉が「明日は我が身と言うことだな」というひと言なのだ。
弱音でないとすれば仕事の引き際を見極めるために発している自分への戒めなのかも知れない。

そんな仕事を継続している彼を見ていても65歳という年齢が高齢者の門と言うのに相応しい理由が見て取れる。
それは高齢者の定義が65歳という年齢ではなく、その奥に秘められた心身の変化によるところの方が自覚する要因としては大きそうに見えるからだ。
いつも強気で生きてきて、私などより遥かに強いメンタルの持ち主が高齢者の門を潜った途端に弱気に変わった姿がその証しでもある。

受け止めようとしないのか受け止めたくないのか

誰も高齢者などと呼ばれたくもないし自覚したくもない。
しかし60歳を過ぎてすぐ目の前に見えるのが高齢者の門だということを見て見ぬ振りをする方が人生を無駄にしそうでもある。

60歳前後の人なら5年など「あっという間だ」ということは実感出来ない人もいないだろう。
サラリーマン人生を送った人は「定年まであっという間だった」と感じている人がほとんどだからだ。
その現役サラリーマン時代の「あっという間だった」は仕事の責任で時間に追われる感覚が大きいが、60歳からは仕事も家族への責任も軽減され時間に追われる感覚からも解放されると思いがちだ。
だが現実はあっという間にその時間も過ぎ去り、そのような先入観はすぐに打ち砕かれることになる。

継続雇用で会社に残った人もこの5年間は瞬く間に過ぎ去ることを覚悟しておかなくてはならない。

取り敢えず居場所もやることもあるからと悠長にかまえていると、高齢者の門が地獄の門にも成り得るということだ。
できることなら幸せの門にしたいが、その方法を見つけるのも簡単ではない。

この60歳からの5年間を、高齢者の門を変えることができる貴重な5年間だと思って過ごすだけでも無駄ではないだろう。
惰性で生きるのが悪いと言うつもりはもうとうないが、せっかくなら最後の人生をこれまでとは違った行き方をしてみるのも悪くはないのではと思うからだ。

どうせ惰性で生きたとしてもあっという間に過ぎ去ることには違いないのだから。

高齢者の人生に必要なのは金儲けではないと分かっている?

もう高齢者の仲間入りをしたなら金を儲けるために人生を送る必要はないだろう。
勿論生活基盤になる資金以上のお金という意味だ。
多くの人がこの歳になるまで金儲けのために人生を捧げてきたことだろう。

少しでも上級の生活がしたいとか生活以外に遊ぶための金欲しさに金儲けをするのが当然だと思ってきたのだ。

長年そんな価値観で生きてきたのだから今更「もう金儲けしなくてもいいよ」となっても、他の生き方を想像することすらできないのがほとんどの人の本音だ。

つまり金儲けだけが正義なのだと信じたいのだ。

もしくは金儲けさえしていれば安心できると言ったほうが正解なのなのかもしれない。
そんな長年かかって身についた価値観の方向転換をこの5年間でやってみるのも悪くはないだろう。

金儲け目的以外の人生を想像することができれば高齢者の門が輝いて見えるのではと思うからだ。
金儲けはいったん置いておいて、自分のやりたいことに最後の人生の時間を使ってみるのはどうか。
こう言うと「そもそもそのやりたいことが見つからない」と言う人も少なくないはずだ。

趣味もなければ好きなことも見つからないということだが、そのように感じる人の思いはサラリーマン人生を過ごしてきた私にもよく分かる。
多趣味だと自覚している私でさえ、実際にその趣味だけを毎日やれと言われても到底できるものではないからだ。
それなら仕事を金儲け目的ではなく考えてみるのもいいだろう。

サラリーマン人生を送った人ならどの職種でも大抵は数字に追われ組織の中で矛盾と戦い腑に落ちないことでも仕方なくやってきた覚えは少なからずあるはずだ。
そんなサラリーマン人生をやっと卒業できたのだから今度は数字ではなく違った目的で仕事をできないか考えてみることだ。

その目的は社会貢献でもいいし自分だけのためでいいが、難しく考えずお金を稼ぐ目的ではなく遣り甲斐目的で仕事をするだけでもいい。

同じ仕事で遣り甲斐を感じないならすぐに辞めてお金ではなく遣り甲斐のある仕事を探すべきではないだろうか。

潜る準備ができていないジレンマ

高齢者の門など潜りたくはないが、いずれ誰もが通り抜けなければならないのは周知の事実だ。
どのちみち潜らなければならない門なら、早くから覚悟を決めて幸せの門として認識しておきたいということだ。

60歳までは自分が高齢者になるなど考えたこともないというのが一般的なのではないだろうか。
下手をすれば65歳過ぎていても考えていない人もいるだろうが、それはそれで幸せなのだろう。
体調変化も環境変化もなく年齢を自覚せずポジティブに生きていけるのであればそれに越したことはない。

しかしサラリーマンならいずれ必ず退職という環境変化を迎えることを忘れてはならない。
その時になって高齢者と自覚して納得できるのかと思うだけだ。
私のようなこじつけ好きな屁理屈人間は特に高齢者という言葉の持つニュアンスをまともに受け入れたくないだけなのかもしれない。

どれだけじたばたともがいてみてもその門までは半年かからず着いてしまいそうなのに、まだ潜る準備ができていない私のジレンマだとしても諦めずに考えてみたい。
高齢者の門を光らすためにだ。