老化を自覚できないと不幸を招く!

Keith JohnstonによるPixabayからの画像

60代から意識する人体の変化と老化の関係

若い頃は懸垂ができる人も珍しくもないが、60歳過ぎてから何の運動も日課にしていないのに懸垂ができる人などいるのだろうかと思ってしまう。
60代の人に「あなたは何回懸垂ができますか」と聞いても「やってみないと分からないよ」と答える人の方が多いだろう。

いつの間にか懸垂もできなくなっていた

退職後の居場所にしようと納屋をリフォームした時、ロフトにベッドを置こうとは考えていなかったのでロフトに上がる階段はハシゴ階段という表現が相応しい簡易的な階段を設置した。

しかしその後ロフトにベッドを持ち込み毎晩そのロフトで寝るようになったが、そうなるとその簡易的なハシゴ階段に危険を感じるようになった。

そんな理由で急勾配の階段のササラ板(階段の段を支えている両脇の板)の両方に手すりを取り付けたが、その時余った小間中(45㎝程度)ほどの手すり棒を外に出た軒先の適当な所にぶら下がり棒として設置してみたのだ。

勿論それは背筋を伸ばしたいがためのものなのだが、ぶら下がっている時にふと昔を思い出した。

決して運動能力が高い方ではなかったが、それでも体育の授業で懸垂を10回は難なくこなしていた。
ところが今はどうだろう。

10代の頃と比べること自体に無理があるのは承知しているが、腕を折って身体を引き上げようとしてもほんの少しも身体を持ち上げることができない。
しかし腕の筋肉量が10代の頃と比べてそれほど少なくなったという自覚がないのだ。
確かに体重が10Kgほども増えているのだから無理もないが、それにしてもたった一回も懸垂ができないのは予想外だった。

もし「あなたは何回懸垂ができますか」と聞かれて「やってみないと分からないよ」と答えることしかできない人は内心でも期待などしない方がいいだろう。

石を投げることもできない

ある日ウォーキングに出かけようと近隣の家の前を通った時、私より10歳も年上の近所の方が孫とキャッチボールをされていたのを目撃した。
その二人の間隔が3間(建物で比較すると6m弱)ほどで少し違和感を覚えるほど近く感じた。

そのあと河川敷を歩いている時に子どもの頃よく川に向かって石を投げて遊んだことを思いだしたので広い河原まで下りてみることにした。
そして小さな石を拾い昔を思い出し投げてみると、想像した目標地点の川の水面まで届くどころか遥か手前にコロコロとその投げた石が転がったのだ。
これほどまでに自身の運動能力の自覚に隔たりが大きいとは思ってもみなかった。
いい歳をした大人が河原で石を投げる行為も誰かに見られていたらと思うと恥ずかしくてできそうにないが、誰もいそうにないなら安全を確認して試してみてほしい。

とにかく懸垂にしろ石投げにしろ自分の自覚している運動能力は「こんなものではない」と信じられないことばかりだ。

尿が出ないと感じたのは

昨年は前立腺肥大などで泌尿器科にお世話になったので、その後は極力意識して水分を取るようにしている。
63歳になった頃から尿の出が悪いと感じることが多くなっているからだ。

それはやはり前立腺が肥大しているからなのだろうとばかり思っていたが、その原因がすべてそうだとは言い切れないようなのだ。

この前も奈良県の奥地から私が住む兵庫県の内陸部まで高速道路を通らずに6時間もかけて帰った時のことだ。

当然ぶっ通しで運転するのは腰にも悪いとトイレ休憩を何度か挟み背伸びをするのと同時にその都度トイレにも赴いた。

トイレに赴いたと表現したのは他にこの状況に適した言葉が見つからなかったからだが、駆け込んだのではないことを言いたいのだ。

その日は和歌山県から奈良県を経由してトータルで8時間も運転したことになる。

行く時はと言えば京都市内でトイレがなかなか見つからず、やっと見つけたコンビニで用を足したが、その時は正しく駆け込んだことになる。

ところが帰り道のこの日は休憩の度にトイレに行くがまったく尿が出ない。
車内では一本目のミネラルウォーターがなくなり二本目だというのにだ。

排尿困難というよりは尿意喪失と言った方がいい。
運転中は尿意が頻繁に来るのも困るが、そうかと言ってまったくないとそれはそれで心配になる。

結局その日はまったく尿が出なかった。
次の日も出ないとなればまた泌尿器科に行かなければならないと覚悟をしていたが、少しずつ出るようになったものだから行かずに済んだ。

しかし昨日はなぜ尿意が無かったのか原因は知っておかなくてはならないと思い、ネットで色々探ってみたら思ってもみなかったことが書かれていた。

ある記事に「座りすぎると尿がでにくくなる」と書いてあったので、「えっ座り過ぎでそんなことになるのか」と驚いた。

前立腺肥大と同様に座っていると尿管が圧迫され、尿意を感じる神経も影響を受けるのだそうだ。
そんなことは60歳までなら思いもよらなかったことだ。

普通に生活しているだけで老化は加速する

60歳までは職場で毎日4時間以上デスクワークしていたが、そのことが原因で体に変調をきたすことなど考えたこともなかった。
定年退職後も畑仕事が苦手な私は納屋の自室でパソコンに向かうことが日課になっているが、ひょっとしたらその行為も尿意を妨げる原因になっていたのかと考えると妙につじつまが合う。

つまり60歳過ぎると普通に生活しているだけで筋力は想像を超えるほど落ち、長時間座ることも許されないと言うことなのだ。

懸垂をしたり石を投げたから筋力が落ちていることは自覚できたが、反射神経や集中力などももはや50代とは比較にならないほど落ちていたとしても不思議ではない。
これらの能力は検査をしていないから自覚できていないだけなのではないだろうかと思ってしまう。

髪が少なくなったりシワやシミが増えるだけが老化ではなく、このような身体的能力の急降下こそが老化なのだということを思い知ることになったのだ。
思い当たることに関しては、個人差もあるだろうが私の場合は63歳からが特に顕著に自覚できる。

この老化を少しでも遅らせようと思うなら普通の生活ではない生活に切り替えるしか打つ手はないと言うことなのだろう。
普通ではない生活とはアスリートにでもなるかのような筋トレや受験生のように脳をフル活用することだ。
いくらなんでもこのような表現は少し度が過ぎているとも思えるが、現に今急降下を実感している私にしてみればこの位の言い回しが丁度いい戒めになる。

今の私には「毎日何となく時間が過ぎ、何をしたか思い出すこともできないような平凡な日課は大敵にこそなれいいことは何ひとつない」と戒めながら生活することなのだ。
既に老化の加速を自覚してからでは手遅れなのかも知れないが、何もせず手をこまねいているよりはましだと思う他ない。

自覚できない能力の低下がもたらす悲劇

どんな能力にしても自覚のないまま無くなっているほど情けないこともないだろう。
東池袋自動車暴走事故は誰もが知る悲劇だが、当時87歳の加害者はまさか自分がブレーキとアクセルを踏み間違えたとは思いたくなかったのだろう。
だがこのブレーキとアクセルの踏み間違いは珍しいことではない。

現に私も現役の頃、そんな現場に事故直後立ち会ったことがある。
ブレーキとアクセルの踏み間違いで、とある店舗に正面の自動ドアを突き破り突進した車の運転手は63歳の女性だった。
運よく死亡事故には至らなかったが、その運転手は勿論建物内にいた人の恐怖は計り知れないものだったに違いない。

長年運転している人は、まさか自分がブレーキとアクセルを間違うなど有り得ないことだと思うだろう。
しかし毎年1,000件以上、65歳以上の高齢者がブレーキとアクセルを踏み間違えて事故を起こしている。

同様の事故は運転初心者など若者にも同程度見られるが、一番の違いは死亡事故になる確立だ。
ブレーキとアクセルを間違った瞬間に間違ったと気付き即座に対応できる能力がある若者と、その能力が大きく低下している高齢者の違いは死亡事故に繋がる割合に大きく影響しているのだ。
多くの高齢者がこの瞬間判断能力低下を自覚できていないのだから免許返納しないのも頷ける。

60歳以上の人は自身の能力低下を自覚することが如何に重要なことなのかを知ることだ。
以前は当然のようにできていた能力を今なおできるのか確認したり、新しいことに挑戦して自身の能力を知ることで老後の幸福に繋がると信じたい。

このように自身を戒めるのは、あと数ヶ月で高齢者になることを受け入れるためでもある。