人生とは運の連鎖でつくられていることを意識しなければならない・・

Katerina KnizakovaによるPixabayからの画像

運が運を呼ぶ人生とは・・

どんな人の吉凶禍福も運命であることには違いない。
その人の意思には反していても受け入れざるを得ないのは天命には逆らえないからだなどと言えば、何か悪い宗教にでも傾倒しかけているのではないかと思われる方もいるだろう。

しかし今回のコロナウイルスによって、人生を思わぬ方向へと変えられてしまった人には他に表現のしようも見つからないのではないだろうか。

更に言えば全ての人がこの出来事によって凶に転じたのなら納得もできようが、そうではないところが天が公平ではないと言いたいところだ。

努力しないと運はこない?それとも運は天下の回りもの・・

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉はよく耳にするが、全力で努力していてもこのコロナウイルスのような天災と言ってもいいような出来事にはなすすべもなく、運に見放されたと受け取らざるを得ない人が多かったことだろう。

世界中で多くの人が翻弄されたであろうこの運も、吉に転じる希望を捨てずに生きてほしいと願うばかりだ。

今回多くの悲運に見舞われた人には、今後多くの幸運が授けられるのは間違いのないところだ。
人生に浮き沈みがあるのは誰もが分かっているはずだが、それでも凶運の原因が自分以外にあれば心に受けたインパクトも大きく、立ち直るのにも時間がかかるだろう。

今は期待せずに吉の天命を待つのが賢明なのかも知れない。

時には待つことも運を呼ぶのか

一生懸命働いている人ほど何もせずに待っていることなど苦手なはずだ。
しかし焦りは返って運を逃がしてしまうことにもなりかねない。

いつもよく動いている人の一番のリスクは期待が大きいことだろう。
行動すればその行動に対する見返りを期待するのは至って常識的ではあるが、運が下降している時ほど期待したほどの結果が得られないのも常というものだ。

運というものは人の力では変えようがないもので「果報は寝て待て」のことわざ通り、幸運は慌てず焦らず寝て待つほどの心の余裕が好機をもたらすという戒めでもある。


善因善果を信じ希望を忘れなければ今に必ず好機を掴むと信じたいものだ。

運気を信じない人に運は巡ってこない

「運など元々存在しない」とか「運ではなく確率の問題だ」などと考えている人も多いことだろう。
「宝くじなどは最も確率の低いバクチだ」と考えている人が宝くじを購入しないのはある意味理に適っているようにも思われる。

しかしその最も確率の低い宝くじ一等に当選している人が存在しているのも事実なのだから、当選の理由や根拠は運以外に説明することも難しいのではないだろうか。

当選した人と当選しなかった人の運に何が関係しているのかは分からないが、当選した人にひとつ言えるのは宝くじを買ったという事実だけだ。
宝くじを例に挙げたのは枚数と一等当選者が比例していないと言われるほど確率が低く、運が左右するとしか考えにくいからだ。


運やツキは何もせず家で寝ているだけでは掴めないということでもある。
「果報は寝て待て」のことわざも何か行動した後に寝て待てばいいという教えだ。
宝くじも枚数を多く買えば運が近付くのではなく、一枚でも買えば運を掴む権利が与えられたことになるということだ。

目に見えるほどの運やツキは滅多にない

運やツキというものがそう度々巡ってくるとは考えにくい。
私も60年という長い年月の間にツキに恵まれたと感じた経験は2度ほどしかない。

その一度目は40年近く前に会社の人たちに誘われて行った旅行でのことだった。
たまたま宿の前に雀荘があったものだから麻雀好きの先輩がメンバー集めを始めたのだが、どうしても四人揃わないので私にも参加してくれと誘ってきたのだ。

麻雀をした経験も少なくどう考えても勝ち目がないのは分かっていたから丁重にお断りしたが、レートを下げるからという条件で強引に連れて行かれた時のことだ。

その日はツキにツキまくっていた。
席に着いた時から不思議な運は始まっていたようだ。
最初の配牌(よく混ぜられた麻雀の牌をそれぞれに配ること)からイーシャンテン(上がるのに必要な牌があと一牌くればテンパイになること)といった状態が最後まで続いたのだ。

当然その時の麻雀は私の一人勝ちで終わったが、なぜかそれ以降そのメンバーから麻雀に誘われることはなかった。
どうもその時の異常なまでの強さに「あいつはプロにも匹敵する雀士だ」と誤解されていたようなのだ。
お蔭でそのメンバーから後々カモにされることにならなかったのは、その時勝った以上の運に助けられたと言ってもいいだろう。

「麻雀はやりません」とキッパリお断りすれば済んでいたものを、優柔不断な悪癖のせいで断り切れなかった私に天が一度だけ助けてくれた運だと考えれなくもない。
だがそのような不思議な運は何度も繰り返し巡ってくることがないのは世間の常だ。

気も付かないような小さな運で溢れた人生が運命だとしたら

確かに今書いたような不思議な運やツキはそう度々訪れるものではないだろうが、よくよく考えてみると何気なく過ぎて行った人生には小さな運やツキが溢れていたとは言えないだろうか。

何十年も共に過ごした妻との出会いや、そのお蔭で授かった子ども達との出会いも運と言わなくて何と言おう。
会社や仕事でお世話になった人たちとのご縁も同じことだ。

ただそれらの運やツキを私たちが勝手に自然の成り行きと勘違いしているとしたらどうだろう。

たまたま見ていたテレビでひとりキャンプの楽しさを知り、アウトドア製品の開発を一生の仕事にしてしまったと言う人は、たまたまその時テレビを見ていたのも運で、キャンプの楽しさを知ったのも運、アウトドア製品に好奇心を持ったのも運なのではないか。

つまり私たちはこのような気も付かないような運を重ねながら人生を作っている。

言い換えれば幸運をもたらすのはこのような日々の気も付かないような小さな運の連鎖だ。
運が運を呼ぶとはこのことだろう。

そんな風に考えると幸運を掴む僅かな希望が見えてきた気がする。

今まで自然の成り行きでしかなかったことを運だと意識する

たわいもないことであっても、そのことを次の運に繋げることはできないだろうかと意識するだけで人生が変わる要素と成りうる。

YouTubeを見ていて「楽しそうだ」と感じれば自分にも出来ないかと試してみたり、人に会って話しをしたならその人との出会いの運を意識してみるのも悪くはない。

今までの人生を振り返っても騙された人との出会いは悲運と言えるが、出会った時の違和感で運の連鎖が見込めない人だと感じていたはずなのだ。
楽しそうと感じることもそれで終われば運の連鎖も終わってしまう。

「自分は運やツキに見放された」などと考える前に、小さな運を見過ごさないことだ。
まるでわらしべ長者の如くだ。
わらしべ長者も観音様の教えがなければ最初に掴んだ一本のわらしべなど捨ててしまっていただろう。

コロナ禍で気落ちしている人たちにも、希望を捨てずに小さな運の連鎖で幸運を掴んでほしいと願うばかりだ。