期待ゼロの境地が人生を変える

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期待依存症から抜け出したい!

私たちは常に期待しながら人生を送っていると言えないだろうか。
何か行動を起こせば必ずそこには期待が付いて来る。
期待と希望の違いは時間的概念の違いだと言う人もいる。
期待は短時間に待ち望むことで希望は長期間で望む感情なのだそうだ。
だが期待と希望の違いはそれだけではない。

期待はどれもポジティブな感情なのに・

私たちはどんな行動にも期待を持たないことはない。
今書いているこの文章も「きっと読んでもらえる」「きっと共感して頂けるだろう」などと期待しながら書いている。
料理をしている人は「きっと美味しいと言ってもらえる」「残さず食べてくれるだろう」などと期待することだろう。
友人に相談するときも「きっと理解してくれるだろう」「同感してくれるに違いない」と期待はいつもポジティブだ。

しかし期待が思った通りの結果に叶う確率は極めて低いということを自覚している人は少ないだろう。
当然といえば当然だ。
最初から叶わないと思うならそれは期待とは言えないからだ。

年齢の高い人ほど期待が外れた経験も多く、何となく大きな期待はしなくなっているのではないだろうか。
それは大きな期待が外れた時の絶望感がどれほどのものなのか分かっているからだ。

期待を捨てて物事に取り組むには

これまでは何事であれ行動するための心を動かす原動力に、ポジティブ感情の期待を欠かすことはできないのではないかと考えていた。
しかし少しでも期待をするとその期待が外れる度に心の中を隙間風が通り抜けたような寂しさに襲われる。

できる事なら期待ゼロの状態で物事に取り組むことができればこのようにやる気を削がれることはないのだろう。
つまりそれは「喜んでほしい」「共感してほしい」などという欲求を最初から断ち切って物事に取り組むことになるが、どうすればモチベーションを保ちながら淡々と継続することができるのか考えなければならない。

考えて見ると頂点に立つアスリート、画家や陶芸家、音楽家、ボディービルダーなどは他人に望むような期待を持って努力している人などいないのではないだろうか。
誰かに共感してほしいとも誰かに誉めてほしいとも思っている訳ではなく、ただ淡々と「誰にも負けたくはない」とか自分自身の満足感だけ追い求めるから継続できて頂点に立つことが出来たのではないだろうか。

「お客様に喜んでもらえる」だとか「上司に認められる」などという期待ずくめの人生を送ったサラリーマンとの違いがそこにありそうだ。

期待を捨てれば成功の喜びを得ることができる

大きな期待をしていない時に限って期待以上の結果が返ってくることも長い人生を過ごした人は経験済みだろう。
最初から期待値ゼロなら一以上はすべて成功だ。
この文章も「せめて1000人以上の人に読んでほしい」と期待しても1000人未満の結果になれば断念な気持ちは否めないが、期待ゼロで自己満足だけで書いているならひとり読んで頂いただけで喜びを得ることができ、その後のやる気の糧にもなるというものだ。

ただ私のような期待欲に浸かった俗人が、期待ゼロの境地に心を保つことの方が難しいだろう。
期待の特徴は身近ですぐ結果が見えることだが、デメリットは他人依存なので裏切られて普通だということだ。

期待は捨ててもなぜ希望は必要なのか

「あくまで希望ですが」と言うように叶うことが見込めないのを前提とした感情が希望だ。
期待のように叶わなかったという絶望感に陥ることがないのも希望を持つ利点だ。
そのためどう考えても叶えることが出来ないからと大きな希望を諦めることはしなくてもいい。

逆に言えば大きければ大きいほどいいのが希望であって、直ぐに叶ってしまうほどの希望は希望ではないとも言える。

期待と希望は同じような意味にとられがちだが、期待は自分ではない他の人に求める望みで希望は自分に対しての望みだという点でもまったく異質の感情だ。
その意味からも希望は強く意識するように心掛け、常に熱い情熱を持っている方がいいのだが忘れやすく元々持ち合わせていない人の方が多いだろう。
しかし自分自身に求める望みなので他人に裏切られることもなく、叶うことも見込めないのでどんな希望を持っても笑われることもない。

ただ希望と言っても抽象的で具体性を欠いているため、頭にある理想を文章化していつも見える場所に置いておくくらいの心掛けは必要だろう。
それを見る度に「あっ自分の希望はこれなんだ」と意識付けできれば、その希望を継続の力にすることができそうだ。

「叶わないであろう大きな希望はハッキリと頭に描いているが、人様に依存しなければならない期待はまったく持ってはいない」と言えるようになれば世間の見え方も変わりそうだ。

とにもかくにも期待依存症から一早く抜け出したいと思っているのは、いまこの文章を書いている自分なのだ。