人生の最後まで家族と幸せに暮らすには

家族への感謝を忘れては幸せは遠のく

人が複数人いればコミュニケーションが発生するが、特に家族のような親しい仲のコミュニケーションがうまくいっていないようだ。
それを顕著に表しているのが離婚数とか離婚率だが、熟年離婚についても年々増加傾向にあり、今後団魂世代の離婚が増えることも予想されているので、更にこの数字が増えていくのは確実らしい。

離婚原因の約半数が性格の不一致だと言うのだが、性格が一致した夫婦など存在するのだろうかと思ってしまう。
ほとんどの場合、どちらかが折れ、相手を尊重しているだけの話しではないだろうか。
亭主関白やかかあ天下は昔の話しで、今や長年連れ添った夫婦であろうとお互いを敬う気持ちが無ければすぐに崩壊してしまう。

家族とは言え人格や価値観は異なるのが普通で、自分の価値観で行動して反発されることもよくあることだ。
十数年前の話しだが、日曜日の朝くらい心豊かにゆっくりくつろぎたいと、リビングにレコードプレーヤーを持ち込んでクラシック音楽を聴きながらコーヒーを飲んでいたら、妻と娘が入ってきて「お父さん、日曜日くらい静かにして! レストランでもあるまいし」と言われたことがある。
クラシック音楽やジャズが好きなのはあくまで私の価値観に過ぎず、それを家族に強要してはならないのだ。

「夫婦喧嘩は犬も食わない」と言うが、そのくらい些細なことが原因であった喧嘩でも、その感情のもつれが大きくなれば取り返しのつかないことにもなりかねない。
特に生活資金を稼いでいた時の夫には我慢できても、退職してしまった夫には以前のように我慢できなくなるとも言われている。

サラリーマン社会で威張っていても、それを家庭に持ち込むと災いの基にもなりかねない。
会社では多くを語らなくても、上司の言わんとすることを理解しようと部下が最大限に神経を使ってくれていたのだ。
家族のように親しい間柄でそのような威厳は、ほとんどの場合通用しなくなっている。
特に定年退職後はそれが家族であっても気持ちを伝えたり理解を得ようと思えば、今まで以上に詳しく言葉にしなければその意はくみ取ってもらえず誤解を招くことにもなりまねない。
そうしてお互いに分かり合ったり敬ったりする気持ちが必要になる。
親子の仲であろうと社会に出た子どもにはそれなりの気遣いも必要になるだろう。
それがコミュニケーションの語源である「分かち合う」ということなのではないだろうか。

日本の文化は古来より「多くを語らず多くを知る」とされたり「知者は言わず、言者は知らず」のように口数が少ないのが美徳とされてきたが、家族や友人のように親しさが深いほど少し話せば言いたいことをくみ取ってくれると誰もが信じている。
しかしそれは意をくみ取っていたのではなく、意に反していても我慢したり尊重してもらっていただけなのかも知れないのだ。
それでなくても生活を共にしている相手に対しての欲求を、理解を得るために言語化するのは困難とされている。

3組に1組は離婚する現在に於いて、今以上に相手を敬い尊重しないと家族の幸せは遠のいてしまうようだ。
家族と共に幸せを考えるなら「ありがとう」や「美味しい」などの言葉も惜しまず、奉仕的な気遣いを持っていなければならないのだろう。

私も退職してから家族に対して実践してみようと心掛けてはいるが、そう容易く出来ることでもなさそうだ。
今まで言ったこともしたことも無いことを急にしようとしても無理なのだ。
感謝の気持ちはあってもそれを言葉にすることは意識していてもなかなか難しい。
習慣化されていないそれらの行動は意識していればチャンスはあるものの、タイミングを逃せば不自然さが際立ってぎこちなくなる。
最近は娘が作ってくれた料理にもタイミングを逃し「お父さん美味しいか?」と催促されてしまうのが現状でもはやこれらの心掛けは諦めかけている。

どうも私のような人間には「触らぬ神に祟りなし」の方がお似合いのようである。

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