「ありがとう」と言えずに失っているもの

ありがとうの一言が幸せに繋がる

一日は誰もに与えられた同じ24時間なのに、人によって感じ方は大きく異なる。
一日を終え寝床に就く時、「今日は楽しい一日だった」と思えたり、時には「辛い一日だったがよく頑張った」と思えるなら意義深い一日だったに違いない。

ほとんどの人は仕事を通して世の中に貢献し、幸せを感じる権利を持っているにも関わらず、辛い事とか煩わしい事ばかりが記憶に残り、幸せを無駄にしていると思うのは退職したから思う事なのだろう。
思い返せば仕事でトラブルを抱えていた時は「辛い一日だったがよく頑張った」などとは思えず、「明日は仕事に行きたくない」としか考えることが出来なかった。

どんな辛いことがあっても、それを前向きに捉え、気持ちの切り替えが出来る人は特殊な才能の持ち主なのだと思っていたが、私のような凡人には到底真似の出来ない心理なのだろうと考えていた。
同時に退職した今となっては、辛い日が無い代わりに幸せを感じる要素にも欠けていると考えていたのだ。
だがその考えが間違っていることに「ありがとう」の一言で気付くことになった。

今思うと在職中はお客様から「ありがとう」とよく言ってもらっていたように感じる。
営業職でお客様と直接触れ合うことが多かったせいもあるが、お客様の期待以上の仕事をしたときや、私にできるさほど大したことではないサービスもお客様に喜んで頂けた時には「ありがとう」と言って頂いたりした。

このお客様からの「ありがとう」で励まされ、遣り甲斐や幸せを感じることが出来たが、今は「ありがとう」と言ってもらえるようなことは何一つしていない。
「ありがとう」がこんなに大切な言葉だったことに気付いたのも、「ありがとう」を聞くことが無くなった退職してからだ。
無くなったのは「ありがとう」を聞くことだけでなく、「ありがとうございました」とこちらから言うことも無くなっていた。

仕事をしていた頃は当然のように「ありがとうございました」とこちらから何度も頭を下げていたが、それは仕事をさせて頂いた当然の感謝の行為であって、この行為が幸せの要因だった事に気付いてもなかった。
それは何も相手から「ありがとう」と言ってもらうことばかりが幸せ感を得る原理ではなく、こちらから「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えることでも幸せ感は得られることを知らなかったのだ。

昨日いつも行く散髪屋さんに開店直後に入ったが既に3人のお客さんが散髪中であった。
この店は安いのが売りで、理容師も常時4~5人は従事して平日に待たされることはほとんどない。
手招きされて作業椅子(バーバーチェア)に座ると「いつも通りでよろしいですか」と声を掛けられたので「はい」と返事をして鏡を見た時、見慣れない若い男性スタッフがいるのに気が付いた。
カットは以前からいる理容師がしてくれたが、毛染めとシャンプーはその若い男性に変わっていた。
仕事ぶりは至って普通だが、おそらく研修中の新人なのだろうと推測できたのは、一生懸命さと同時に緊張が伝わってくるからだった。
最後に刷毛で服をはらってくれて「終わりました」と言うので、敢えてその男性の顔を見て「ありがとう」と感謝を伝えると、ニコッと笑顔で頭を下げてくれた。

お金を支払って受ける当然のサービスとは言え、「ありがとう」の一言がこの若者の緊張をほぐし気持ちの良い笑顔にしたばかりか、私の心も温かくしてくれたのだ。
お金を払っているのだから当たり前と思わず、敬意や思いやりの気持ちを込めて「ありがとう」と伝えることで、その若者と幸せを共有できたと言える。

退職してから人と触れ合う機会が激減してしまったが、それだからこそ気付かされた幸せの感情であった。
退職までは何度となく当たり前のように使っていた言葉だが、これからはチャンスがあれば思いやりや誠意を込めて、心から「ありがとう」と伝えるように心掛けたい。