信仰心を高めて幸せになれるのか

Dhamma MedicineによるPixabayからの画像

60歳から死生観は身につくか

60歳も過ぎてくると人生観だけでなく少し気になってくるのが死生観だ。
最後の人生を生き抜くためにも死生観を疎かにすることはできないと考えるようになってきたのは最近になってからだ。

広告


宗教離れが幸せに与える影響

日本人の宗教離れが急激に進んでいると思い少し調べようとしたところ、宗教離れが進んでいるのは日本の仏教だけではなさそうだ。
ヨーロッパのキリスト教やトルコのイスラム教など、世界の各地で神仏を信仰しようとする人が減っているようだ。
特に高い教育を受けた若者が信仰心を失っているようだが、そういう私も信仰心が高い訳でも興味をもっていた訳でもない。

近隣の高齢者を見ても毎日神仏にお供えや手を合わせている信仰心の高い人と、私のように手を合わせるのも一年に数回といった信仰心の低い人に分かれる。
なぜそうなったのか考えて見ると元々仏教について深く学んだわけでもなく、生と死について哲学的な勉強をしたこともないばかりか、親も信仰心が高い方ではなかった所為なのだろう。

その結果、実際に目で見えない物や記憶にない物を信用したり崇拝することができなくなっているのだろう。
しかし信仰心が高い人ほど幸福感も高いという統計データがあるそうだが、その理由は聞かなくても想像ができる。
「信じる者は救われる」という言葉の理屈そのものだ。

病気になったり何か問題を抱えて藁にもすがりたい時など、宗教が心の支えになってくれるのだろうが、その時だけ信仰心を持っても心が安らぐことがないのは本心から信じていないからだ。

信仰心がない人の不幸

生と死は直結しているというより人には生と死しか存在しないと考えるのは私のように信仰心が低い者の考えることだ。
人は生を受けて人生が始まり死を持って人生が終わる。
死後の世界や来世といった見たことも自分の記憶にもないことを信じることができないのが無宗教の辛いところだ。

人は死ぬことで全てが無になるとか、全ての人の人生は期限付きなどと本気で考えていたが、少し改めたいと思い始めたのは歳をとったからなのかそれとも死に近づいているからなのかは自分でも分からない。

ただ最近の京都の放火事件などを見ていて強く感じるのが、犯人の死生観はどうなっているのかということだ。
私と同じように「どうせ死んでしまえば全てが無になる」と考え心の拠り所もなくした人なのではと思えてならない。

そして信仰心の強い人なら来世や死後のことを考えるとそのような行動には至らないのではないかと何の裏付けもなく思ってしまうのだ。

先祖から受け継がれる宗教

信仰心がないとは言え私にも先祖から伝わる宗教を持っている。
それが平安時代の初期に弘法大師が開いたとされている高野山真言宗だ。
当然のように親を見送った時も真言宗の僧侶によって葬儀を執り行ったが、ことような時でないと神聖な宗教に触れることも身を置くこともままならない。

元々宗教とは現在の科学では説明の付かない超自然的なものを自明なものとし、あたかもその存在を疑うことなく振る舞わなくてはならないが、なぜそのようなことができるのだろう。
今まで見たことも経験したこともないことをどうして信じることなどできようか。

超人と言われている空海が起こした奇跡や、高野山奥の院で毎日運ばれる食事は今も尚生きているとされる空海のためだと言われても誰も空海やその奇跡を見たことがない。
私のような信仰心のない者は、見たことないものや経験したことないものには先ず疑って掛かるが、それではいつまでたっても信仰心など芽生えたりしないだろう。

信じることより興味を持つことから

そうは言っても60歳を過ぎるとそろそろ死についても理解して行かなければならない年頃だ。
どうしても神が奇跡を起こすといった超自然的なものを信じることができないので、先ずは他の角度から興味を持つことにした。

それは例えばルーツであったり歴史などを興味本位で繋ぎ合わせ、自分なりに妄想して宗教観を作ることができないか試してみることだ。
といっても決して新しい新興宗教を作ろうとするような大層なことではなく、旅行に行ってその土地の仏教の関わりを感じたり、自分のルーツを探りそれらを無理やり繋ぎ合わせて自分なりの死生観が出来上がればそれでいいのだ。

他から聞くことを信じることができなくても自分が作り上げたものならそれが例え妄想と言われるものであっても信用できるだろう。
イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスが「神は妄想である」と言ったように、信仰心の少ない人は誰でもそう思っているに違いない。

「神は妄想である」と思いながらも自分の中に新たな妄想を描くことで信仰心を高めようとする試みだ。

日本仏教とアンコールワットの共通点

昨年カンボジアのアンコールワットを訪れたが、多くのアンコール遺跡が作られたクメール王朝がジャヤーヴァルマン2世の即位によって始まったとされるのが802年頃だ。
一方日本ではこの次の年(803年)に空海(弘法大師)が出家したとされている。
カンボジアのアンコール遺跡群が作られることになるクメール王朝の始まりと、空海が中国長安から密教を持ち帰った平安時代の幕開けが見事に重なっているところが興味をそそられるところだ。

カンボジアではインドから伝わったヒンドゥー教寺院として世界的観光地となったアンコール遺跡群を作ったが、クメール王朝の変貌で多くの寺院が仏教寺院に改修されている。
このカンボジア仏教と日本の仏教はまったく違ったルートを辿ったはずだが、多くの共通点を見ることができる。
その一つが仏教との関わりが深い蓮だ。
日本でも葬儀の飾り付けや寺院の本堂内でも蓮は欠かせないが、アンコールワットでも多くの蓮池を見ることができる。
カンボジア人が「チョムリアップスオ」と丁寧な挨拶をするとき蓮のつぼみを両手で形作るのも生活に仏教が浸透している証しだろう。

他にも日本では塔婆の上部に書かれる梵字とカンボジアのクメール語は同じサンスクリット語に起源を持つ。

SF的空海の奇跡を信仰心へ繋げる

空海(弘法大師)がまだ中国へ留学する以前に高知県室戸岬の御厨人窟(みくろど)という洞窟で修行をしていた時、口に明星が飛び込んできたとある。
明星とは明るく輝く金星のことだが、それは空海がそう感じただけなのだろう。
実際はこの時、想像もできない超自然的なことが起きていたいたとしたらどうだろう。

これはまだ私の妄想ではなく提唱している人がいることだが、空海が真言を100日掛けて100万回唱える修行をしていた時、アカシックレコード(ルドフ・シュナイターが提唱した宇宙の彼方に存在する全宇宙の過去未来全ての情報を記録したもの)へのアクセスがアクティブになった。

宇宙や時間、人の人生に関するあらゆる不可逆的なことはまだ解明されていない謎が多いが、アカシックレコードがもし実在するなら空海の奇跡とされる人生も真実味を増すことになる。

空海は医薬を学ぶ留学生として遣唐使と唐に派遣されるので医薬の知識はあっただろうが、中国語やサンスクリット語にも精通していたそうだ。
しかも24歳で中国の三大宗教である儒教、道教、仏教を解釈し比較思想論まで書いている。
真言とはいえ毎日お経を唱えるような修行を行ってそこまでの知識が身につくのも不思議だが、たった2年で密教を習得したことにも謎が多い。
大阪湾から博多を経由して中国に渡った遣唐使の4隻の船の内2隻が遭難しているが、たどり着いた2隻の船に天台宗の開祖と言われている最澄や三蔵法師の称号を贈られる霊仙も乗っていた。
この時密輸船(あるいは海賊船)と疑われ50日間待機拘留させられるが、それを助けたのが中国語や文章力に長けた空海だ。

遭難してたどり着いた中国福建省から西安市長安までは直線でも1300キロはあるが、時速4キロで毎日8時間以上歩き続けて何日あれば辿り着けたのだろう。
長安のお寺で密教を勉強したのは実質1年そこそこだった。

疑問は遣唐使が密輸船と疑われた時、遣唐大使を救ったのがなぜ最澄や霊仙のような著名な僧侶ではなく無名な空海だったのか。
なぜ自ら進んで疑いを晴らす行動をしなかったのかなど多くの謎がある。
更に20年間長安で留学する予定を短縮して2年で帰国したのは滞在費が底をついたとなっているが、それならなぜ遍照金剛(へんじょうこんごう)の位を授かった時、近くの大きなお寺から500人もの人を招いて大宴会を開いたのか。
何らかの方法でアカシックレコードのようなものにいつでもアクセスでき、未来を予言又は予測でもできない限り空海の奇跡を説明することは不可能だろう。

信仰心は支配されるものではない

信仰心を少しだけでも高めようと思うのは、60歳からの人生を最後まで幸せに生き抜こうと考えているからだ。
どこかの新興宗教に洗脳されたいからでも自己暗示に掛かりたいからでもない。

信仰心を強めた人には宗教に心を支配されるといったネガティブなイメージがあるが、できることなら自分が妄想する宗教感の中に楽しく心を鎮めたいと願っている。
それは我が家で先祖から伝わる高野山真言宗でも問題はない。

問題がないどころか空海の奇跡を調べて見ても結構楽しく妄想することができたが、未だに妄想だと感じるのはまだ信仰心が育っていない証しだろう。
実際に高野山で修行した人には叱咤されそうだが、真言宗に少し興味を持っただけでも前進だということで許してほしい。

理想の死生観は宗教に支配されず自分の意思で信仰心を持ち、人は死んだら無になるのではなく未だに解明されていないエネルギーとなって宇宙のどこか若しくは宇宙の外に保管され、まったく違う次元で蘇ると信じることでこの世の善悪をコントロールして幸せな人生となることだ。

広告


シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加