
Hans BraxmeierによるPixabayからの画像
人生の分岐点で反省しなかった代償
サラリーマン時代はさほど何も考えずに生きて来たと今更反省しているが、60年生きて来て何度となく訪れた分岐点が、特に自分を成長させてくれたと言ったような特別なものにはならなかった。
分岐点て立っている時は冷静な判断と勇気が歩くべき道を示してくれる
勤めていた会社が倒産したり廃業に追い込まれて再就職しなければならない状況になった時などは、自ら望んだ事では無いにしろ、大きな分岐点であったはずだ。
再就職すれば新たな出会いも多くあり、その中で培われる人間関係などは良くも悪くもその後の人生を大きく変えるだけの影響力もあっただろう。
そんなチャンスに溢れた人生を歩んでおきながら「この時から飛躍できた」と思えるような人生にならなかったのには、保守的でリスクを避けながら生きて来たのが起因している。
何度となく訪れた分岐点に、行動力や判断力などの能力に加えリスクに立ち向かう勇気が少しでもあったなら今が変わっていたのだろう。
例えば好きな事で起業しようと考えた事も何度かあったからだ。
だがそうしなかったのは自分の意思以外の何者でもない。
そしてその判断が決して間違ったものではなく、今の自分にとっても幸せの種となっているのは間違いないだろう。
確かに裕福でもなく人様に自慢できるようなものも無いが、真っすぐ育った子どもたちと平穏な家庭がそこにあるだけで満足している。
能力に欠けていることを隠してどこかの分岐点で大きな飛躍を求めチャレンジしていたなら、今の小さな幸せすら失っていたのではないかとも考えられる。
そのような何の変哲もない平凡極まりない人生からも、今「分岐点に立って悩んでいる方への道標」を示すことができると確信している。
人生の分岐点に立った時の道標
・先ず今の自分を包み隠さず見てみる事だ。
・希望や夢だけが勝っている時は案外自分が見えていない。
・自分の甲斐性を紐解いて、それ以上の事を考えているなら確実な根拠を示せるか考えてみなければならない。
・親や兄弟を当て(期待)にしてはならない。
・親兄弟、ましてや他人を不幸にするほどのリスクを伴うようなことは決して考えてはならない。
・お金が幸せの根源だとは決して考えてはならない。
・今の不満は誰の所為でもない、自分の過去の行動にあると思え。
自分の甲斐性とは、今自分が持っている財産や能力のことだ。
実際大きな借金をしてまで新しいことをしようと考え、そのために人の財産を担保するような事は最初から失敗したも同じだ。
もし資金が足りないのなら、その話しに共感して頂ける投資者を探すことだ。
何であれ説得できるだけの確信と能力は必要になってくる。
分岐点で就職を選んでも飛躍するチャンスは多く存在する。
自分の能力を高めることが出来るなら、どこにいても望みは叶うものだ。
私の場合も48歳で最後に就職した会社で、新規事業を任せて頂き、最終的に部長職で退職させて頂いたのも、良き人とのご縁があったからだ。
その新規事業を任せて頂いただけでも48歳の時の分岐点で、この会社に再就職する道を選んだことへの後悔など何処にもない。
後悔をするのは自分を高める努力を怠ったことにある。
人との出会いで運よく頂いた飛躍はあったものの、努力して高めた能力によるところのものとは程遠いのだ。
私の場合は自分の意思ではなく倒産などで失業した時が人生の分岐点だなどと書いてきたが、実は何時でも何処でも分岐点を作り出すことはできるものだ。
その瞬間から自分を変えることができるなら、それが人生の分岐点だ。
その切っ掛けがたまたま読んだ本であったり、時には偶然出会った人に影響を受けた時なのかも知れない。
長年のぐうたらな生活で身に着けた悪癖にも打ち勝ち、自分で決めたルール(意思)に完全に従えるだけのメンタルを備えた時が人生の分岐点になると強く感じている。
このブログを書いていて感じる事だが、最近読んで頂ける人が少し増えてきたのが切っ掛けで私自身も少し変わろうとしているのが実感できる。
今まではどうせ大して読んでももらえないので自己満足程度なものと考えていたが、読んでもらえるとなれば少しは人様に影響を与える文章にならないかと考え始めているのだ。
人生の分岐点と言うのものは自分が変わろうとする時なのだろう。
チャンスがやって来たと思えばいい。
そのチャンスを今回は逃してはならない。
そのためにしなければならないことはたくさんある。
その先には自分の描いた幸せが待っていると信じて。