終活の目的が死ぬ準備ならやろうとは思わない

エンディングノートと聞いて書きたくないと思うのは!

以前にも「間違いだらけの終活」と題して書いたが、終活を人生の終わりのための活動と受け取るから死ぬ準備が目的となる。
確かに「終活とは」と検索すると人生の終わりのための活動の略となっている。

つまり終活とは生きるための目的で行うものではなく死を前提とした活動だという意味合いの方が強い。
この終活という言葉は週刊誌から生まれたようだが、できることならもっと前向きな言葉を選んでほしかったと言いたいところだ。
生きている内に自ら身辺整理を行い残された人生を気持ちよく生きるといった意味も含まれているようだが、それなら余計にもっとポジティブな印象を与える言葉にしてほしかった。
私は今でも、紛らわしくも就活と同じ読みを使うことにした終活に違和感しか感じない。

最活(さいかつ)に変えたのは終活に馴染めないからだ

どうも終活という言葉に馴染めないので敢えて最活と名付けた。
再活(さいかつ)でも歳活(さいかつ)でもいいのだが「最」という文字を当てはめたのはこの漢字に最も強いパワーを感じたのがその理由だ。

人生最後の分岐点である定年退職や引退、またはそれに準ずるライフスタイルの変化などで人生が最終章に入った意味からも相応しいと感じた。

終活が死ぬ前の活動だとするなら最活は人生を最後まで幸せに生き切るための活動なので目的意識も随分とポジティブに思えないだろうか。

特に断捨離や資産整理などは心身共にエネルギーを必要とするので、50代60代の若い世代でやるべきだ。

80代になって大掛かりな片付けをやる体力がある保障はどこにもないし、認知能力が老化で弱ってから資産整理などできるはずもない。
ましてや日本人の平均寿命が80代だというだけで、誰もが80代まで生きる保障などどこにもないはずなのだ。

最活の目的が死ぬ準備でなく生きる目的とするなら葬式や墓、エンディングノートなどのことを考えるのは止めた方がいいという考え方だ。

ここまで言うと異議を唱える方も多くいらっしゃるだろうが、これはあくまで今60代を生きている私個人の感思だ。

これまで終活と言われてきた内容のうち、自分のためではない活動はやらずに自分が最後まで生き切るための活動を優先することが最活だ。
終活の目的でよく言われている「残された家族のため」や「立つ鳥後を濁さず」のような台詞はあくまでその人の思いであって、残された家族の思いと違うことも少なくない。

エンディングノートに葬儀のことや交友関係、生きざまや思いなど書いても残された家族の負担を減らすことにはならないばかりか返って負担を背負わすことにもなりかねないのだ。

認知度が高い終活も実践している人が少ないのは終活を死ぬ準備だとネガティブに受け取っている人が多いからだろう。

最活チャレンジノート

終活のためのエンディングノートと最活チャレンジノートと聞いて、書き込む内容がさほど変わらないとしてもあなたならどちらのノートを選ぶだろうか。
最活チャレンジノートがエンディングノートと最も違うのはこれからの人生の希望を書くことだ。
これからどう生きたいのかや何をやりたいのかなどできる限り詳しく書くのがいい。
そして最終的に何をやり遂げたいのかという大き過ぎる希望を書くのも悪くはない。

学歴や職歴、自分史や記念日など自己満足のために書くなら止めはしないが、最活ではあまり意味のないことだ。

実際に販売されているエンディングノートの記入欄を見ると、これまで乗ってきた歴代マイカーの紹介や思い出の出来事、仕事の功績など誰に見せようとしているのか疑問しか感じない項目も多い。

逆に最も優先して書くことを勧めたいのは資産管理とデジタル情報だ。
自分でも忘れていたような通帳や不動産は新たに整理することで価値が生まれることも多いからだ。
例えば身内の誰もが欲しがらない田舎の実家があった土地や家も、定年退職後の居場所として考えて見れば思いもしなかった価値に生まれ変わることもあるからだ。
売買価値は無くても居場所としての価値を見出せる可能性があるということだ。

デジタル情報とはネット銀行のアクセス情報やSNSのアカウントなどだ。
近年ネット銀行のセキュリティ強化で自分の口座にアクセスするだけでも簡単とは言えない時代になってきた。
年々老化により認知機能が低下すると考えるなら口座情報とアクセス情報は記録しておくに越したことはない。
特にたまに変更する可能性があるパスワード類は記憶しておくことも困難になるからだ。

それにSNSのアカウントなどの情報も整理しておくことがお勧めだ。
サブアカウントや裏アカウントなどひとつのSNSでも複数のアカウントを持つ人も少なくないが、これらを整理することは心を軽くして人生を送るひとつの手段でもある。
このデジタル情報を記録するのも家族のためではなく自分のためにやることに意味がある。

最活チャレンジノートに記録するのはこれまでの人生を整理し、これからの人生を心を軽くして過ごす準備だと解釈すればいい。
よく他のブログで目にする「定年退職したら全てを捨てて幸せになる」を実践するための準備だ。
勿論最活チャレンジノートなど市販されてないので普通のノートを買って自分なりにアレンジして書くことになる。

そしてこのノートに最も相応しくない内容が葬儀の希望や墓の準備などだ。
私は子孫に供養の要望など何ひとつない。
供養とは生きている子孫が先祖のために行うものだからだ。

心豊かに生きる目的でやればいい

私の場合は定年退職前と退職後で180度変わった人生観がひとつある。
それが生きた証しを残すことだ。
定年退職前はどうしたら自分の生きた証しを残せるだろうと考えたこともあったが、今は生きた証しなど残そうとして残すものではないと考えるようになったのだ。

名の知れた成功者や偉人でもない限り世の中の役に立つようなものなど残せるはずもないが、それとてその人たちが自分の生きた証しを残そうと考えた結果ではないのだろう。
エンディングノートにどれだけ盛った功績を書こうが、このようなブログに偉そうなことを書こうがそんなことが生きた証しなどにはなり得るはずもないのだ。
今は生きた証しを残そうと考えること自体ナンセンスだと思うようになった。

このように生きている以上人生観は変わっていって当然なのだろうが、生きた証しも死ぬ前提でなければ考えることではないことに気付いたのだ。
勿論死は誰にも訪れるものなのだから死ぬことに目を背けず生きることを考えることは重要なのだろうが、できれば人生観と死生観は分けて考えたいと思う。

死んでから誰かに気付いて頂くよりも、今生きている実感を得ることを考えたいと思うこの頃だ。

実を言うと妻に終活だと言われて始めた家の片付けだったが、本腰が入らず心を動かす原動力の弱さを感じていた。
今日のブログはそんな自分を戒めるために書いた60代を生きる私のたわごとだ。