60歳過ぎてやりたいことを見つけるのは簡単ではない

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やりたいことを見つけられないのが一般的

定年退職後の準備とは主に「やりたいこと」「居場所」「生活基盤」だ。
その中でも「やりたいこと」を見つけるのは最も難しい。
このブログでも何度か取り上げてきたが「やりたいことなど見つからないよ」という人がほとんどだ。
ゴルフのように月に数度できる趣味ならまだしも、毎日打ち込むこととなると簡単ではない。

定年退職後の準備で一番難しいのが「やりたいこと」を探すこと

定年退職後に「やりたいこと」を探すといってもあまりにも具体性に欠け雲をつかむような話だ。
「やりたいこと」とはどんなことがいいのかというと、これもその人の考え方や人生観によって大きく変わってくる。
定年退職後のやりたいことに条件を付けるとするなら、最後の人生をかけて打ち込めることや生活の一部にできるといったことになる。

例えば週に一回しか行かない海釣りの趣味は定年退職後のやりたいことには匹敵しない。
何故なら週に一度程度のことでは生活の一部にはなり得ないからだ。
だが飯より釣りが好きで釣りに行かない日もルアーなどの仕掛けを研究しながら日々を過ごしたいと言うのなら話は別だ。

他にも音楽や絵画、彫刻など芸術性の高いものなどでやりたいことがあれば申し分はないだろうが、誰もがそんな趣味は持ち合わせてはいない。
中には仕事をするのが生き甲斐だと考えている人も少なくないが、もし仕事がしたいなら生涯できる仕事を探すべきだ。
今まで勤めてきた会社に定年制度がないのならそれでいいだろうが、延長雇用制度を入れても65歳で退職しなければならないのであれば、生涯かけてやりたい仕事を見つけて準備しておくのがいいだろう。

長年サラリーマンをしている人が、この定年退職後の「やりたいこと」を疎かにするのは定年退職した後の生活を想像することができないからだ。
「まあなんとかなるだろう」とさほど深刻には捉えることができない。
「やりたいことがないと言っても別に食べ物がなくなるわけではない」と死活問題と同等には考えることができないのだ。

定年退職後にやることがない人の朝

継続雇用制度で65歳まで同じ会社で働いたが、早いもので退職してから半年になる。
今は年金も受給しているので、贅沢をしなければ何とか食べていくことはできている。

今日も目が覚めたのはまだ暗い4時過ぎだ。
そんな早くに起きても仕方ないので目をつむり時間をやり過ごそうとするが、なかなか時間は過ぎてくれない。
何とか辛抱してベッドの中で過ごせたのは目が覚めてから1時間半ほどの間だ。
7時にセットしているスマホのアラームを止めて顔を洗い新聞を取りに出たのが6時頃だ。

新聞を読んでいると別の部屋で寝ていた妻が起きてきて「私、今日出掛けるけど夜は遅くなるから」と言ったが、その言葉の中には「あなたのことばかりに構っていられないから昼と夜は自分で料理を作るなり買ってくるなりして食べてちょうだい」という意味も含まれている。

退職したての頃はハローワークで高年齢求職者給付金の手続きや、年金の受給申請など少しはやることがあったのと、長年の縛られたサラリーマンから解放された喜びが大きく伸び伸びと生活できていた。

しかしそれも3か月が限度だった。
最近は自由とは名ばかりのストレスに苛まれている。
これは唯の暇というだけの感情ではない。

最初の頃はそれでも外へ出てコーヒーを飲んだりウォーキングと称して散歩をしたりしていたが、今は外へ出る気力もないほどだ。
妻がいない日は食事の準備をしてもらえないので買ってくればいいが、買いに出るのも億劫なのだ。
テレビを見ても面白い番組などあるはずもないが朝から夜までついている。
他に興味を引くものもない。

こうなれば「何のために生きているのだろう」とか「病気になったら病院にでも行くことができるのに」といった健康な心とは掛け離れた感情が根付いてくる。
こんな状態だから一日が途方に暮れるほど長いと思うだろうが以外に短い。
時間の経過が長いと感じるのは目覚めてから起きるまでと、暗くなってから夕食までの時間くらいだ。

5年前同窓会で田舎に住む同級生が「退職したらやることもないので稲や野菜を作って生活しようと思う」と言っていたが、その時は何とも思わなかったのに今となっては羨ましい。
その同級生は稲や野菜作りをやりたいわけではなく、ただ田畑があって他に何もやることがないだけのことではあるが、それでもやることがあるだけで幸せに見えるのだ。

やりたいことだけでなく、何もやることもないのがこれほど心を蝕むものだとは思ってもみなかった。
こんなことならもう少し早くに何でもいいからやりたいことを見つけておくべきだったと後悔している。

定年退職までに趣味や遣り甲斐を見つけておこうとネットで見たこともあるが、他人事のように甘く考えていたことが今実感として感じ取れる。
日に日に無気力、無関心、無感動は強くなりこのままだと廃人のようになって行くのも目に見えている。
廃人にはならなくても認知症や体の弱いところが病に侵されるのは時間の問題だろう。

今からでもまだ間に合うだろうか。
やりたいことなど思いつかないが何かやらないとこのまま人生が終わってしまいそうだ。

そんなネガティブなことばかりを考えながら、つけっ放しにしてあるテレビに目をやるとたまたま料理番組をやっていた。
「そうだ一度もやったことはないが料理でも作ってみるか」と考えたがIHクッキングヒーターの使い方も分からない。

考えるよりやってみる

こんな時は手遅れになる前に何でもいいからやってみることが重要だ。
一度もやったことがなくても、IH クッキングヒーターの使い方が分からなくてもとにかくやってみることだ。
時には料理の才能に目覚めることだってありうるからだ。

最初からやりたいことを夢見ている人などはほんの一握りだ。
ほとんどの人は何かの切っ掛けでたまたま始めることになり、一つのことに打ち込んでいる人の方が多いだろう。

それが趣味であれ仕事であれ毎日の日課になればいいだけのことだ。
料理を好きではないが仕方なくやっている主婦も多く、夫がやってくれるなら大歓迎で応援してくれるだろう。
喜んで食べてくれるのが例え家族であっても、遣り甲斐を感じることができれば次に繋がり夢が持てる。

毎日生きていることが実感できることや、やらなければならないこと、それが生き甲斐や遣り甲斐だ。
もし、やりたいことが見つからないときは片っ端からやってみることだ。
あれもこれもやっているうちに継続できるものとできないものに自然に仕分けされるだろう。

ただ何でもいいとは言っても体に鞭打ってまでやりたくない仕事をしたり、まったく心が動かない趣味をやるのではない。
せめてこれなら続けられそうだと思うようなことでないと最後の人生を楽しむと言うことにはならないだろう。

羨ましいと思える人生を送っている人は変わり者

年齢には関係なく一般的に好きなことだけをして生活している人は、ほとんどの場合変わり者だと思われている。
例えば若いころ野球をしていた人の中で、野球だけで生きていこうと考えた人はほんの一部だ。
なぜ野球だけで生きようとしなかったのかというと、野球だけで生きていく自信がなかったからなのだろう。

いくら野球が好きとはいえ人の何倍も練習して、アルバイトをしながらでも独立リーグなどで野球を続ける人はほんの一握りで変わり者だ。
だが、そこまでしても好きな野球をしている人を誰もが羨ましいと思うのはなぜだろう。
それでも有名な選手になれば変わり者ではなくなり憧れの人に変わっていくのが不思議だ。

例えば60歳で定年退職し、毎日山奥の小屋で売れない絵を描いて過ごしている人を見て変わり者だと思う人は到底真似をすることはできない。
そのくらい毎日好きなことをして過ごすことは普通とか常識ではなく変わっていて、簡単に真似をできることではないと言うことなのだ。

会社に行けばマイデスクがありやらなければならない仕事に不自由しなかったサラリーマンにとって最も苦手なことが、毎日打ち込むことができる「やりたいこと」を見つけることなのかも知れない。

定年退職をして仕事を奪われた者が、変わり者になって人生を謳歌することがそうそう簡単ではないことを伝えたい。